「ただの愛」

先月、映画『マティアス&マキシム』に宛てて詩を書く仕事をいただいて、でも映画を観た後はその映画がとても好きだから書きたい、という気持ちしかなかった。詩は、二人の映画の中にある関係性を何度も思い出して、静かな湖の底を見るように、奥へ光を届けるように言葉を選んで書いていた。一番傷つくところを曝け出してしまう相手となったとき、その人を愛したのだと気づいてしまう。けれどそれを、単なる苦しさとして描かない詩にしたいと思った。それは、私にあの映画が促してくれたことだった。
    
ドランはこの映画について「ゲイについてではなく人生についての映画だ」と言っている。「これはただのラブストーリーなんだ」私も、そうだと思う。愛は愛だよ、ゲイの映画にある愛だって、ただの愛だ。でも、それをずっとそう見ようとしなかったのはヘテロ側で、「ただのラブストーリー」という言葉はそのグロさに対する言葉でもあるように聞こえた。
   
今日、映画のマティアスとマキシムの二人の写真を、異性愛カップルに置き換えたイラストがプロモーションとして公式から出て(描いたのはよく読む漫画家さんだから余計に悲しい)、それを見て、彼らから「ただの愛」を奪うことをしないでほしい、と思った、なぜそうする必要があったんだろう、それは「ただの愛なら同じだ」という理屈なんだろうか?そうやってまた、奪っていくのだろうか?愛に互換性はない、二人の間にあるものが他の誰かに当てはまるわけもない、それらはその二人が存在して生きてきたからこそ芽生えるものであって、二人の人生全てがそこになければ生まれないものだ。人生に、性別が関係ないわけがない、二人が男性であることが二人の人生に関係ないわけがない。そしてその二つの人生によって生まれた愛、だからこそ、それは「ただの愛」なんだと思う。
    
生まれてきて切り離せないものはそのときからすでに、たくさんある。肉体もそうだし、環境もそうだろう。けれど(理不尽な差別や暴力に晒される場合を除いて)、それらが自分の人生全てを決めてしまうわけではない。でも決して完全に、自由になるわけでもない。もはやそれらと自分を切り分けることなんて不可能で、でもそれでも生きる「ぼく」は「ぼく」であり、「きみ」は「きみ」だ。属性そのものが名前になるわけもない。いくつものことが決まっているのに、それでも未来に向かって生きているのはなぜなのか。不確定なものにこそ、「ぼく」は「ぼく」を見出しているから。確かな過去や属性を捨てていけるわけではない、無視しているわけでもない、でもそのままで不確定さに向かって生きていけるから、「ぼく」は、「ぼく」であることに失望せずに済んでいる。
    
愛は、まっさらではない人生を抱いて、それでも生きる人の見る「未来」そのものによく似ている。人生全てがそこにあるのに、瞬きの刹那にしかないような真っ白なものを二人が共有するから、愛は鮮烈なんじゃないかって思う。ともにいたいと思う、ともに未来を見たいと思う。過去や属性の全てを受け止めることなんて不可能に近いけれど、それを抱えたまま生きようとするその人の、未来をともに生きたいと思う。他者の不確定なものを、その人が「生きる」瞬間と同じぐらい、強く信じている。過去の集合体として「あなた」を見るのではなく、これから生きるあなたの時間にこそ、「あなた」を見出す。だから、その愛は「ただの愛」として、まっさらなものを背負っていけるんじゃないだろうか。
   
過去や属性が、愛の形を決めてしまうわけがない、その先にある未来へ向かおうとする愛情は、いつも「ただの愛」として、透き通っていくみたいにそこにある。それでもそれらは、誰にでもあてがえるものではなく、二人だけのものなんだ。二人が生きていたから、そこにある。二人が生きて、その上で未来を見るから透き通る。二人の人生にあるものが、無関係なわけがない。
   
ゲイについてではなく人生についての映画だとドランは言っていた。ただのラブストーリー。それを「ゲイの愛」としてしかみいださないことと、それを「ヘテロの愛」と同義だと置き換えてしまうこと。二人には二人にしかありえない愛情があって、それが芽生えた瞬間のことを思い出す。二人がその瞬間まで生きてきたこと、そしてそれからも生きていくことが描かれて、それでも愛は「ただの愛」だった。二人の人生があるからこそ、その愛はどこまでも「ただの愛」だった。未来に向かっていたんだ。あらためて、素晴らしい映画だったと思う。映画館で早く観たいって、今、強くそう思います。
   
  
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