理論論理と論理理論(rironronri to ronririron)

別マガ11月号発売しています。HPで創刊号の掲載マンガ9作品がタダで読めるらしいです。創刊号を読んでいない方もこの機にぜひ。
  
細かい創作においても、向き不向きがあるなあと考えた。私は基本的に快不快の基準で創作もやってるから、作為的なことがものすごく苦手だ。詩でも小説でもその他もろもろでも、それが純粋な創作行為であるならば、作為は一切必要ない。好きなようにかき始め、好きなようにテーマをかたどり、好きなように終わらせればいいのだ、書かなくてもいい。ただ創作以外の場合で、目的を先に設定して、それに至るようにものを作るとか、そういうことができない。創作がどれだけ自分にとってやさしい場所だったか(まあ別の側面ではやさしくないのだけど)がよくわかる。
小説もはじめはきちんとしたプロットを先に立てていったけど、最終的に筆が「あ、無理です」って言い出して大脱線をした。そこからのつじつま合わせをやりはじめると、それこそが私のやりたかったことなんじゃないかとすら思えてくる。私は脱線することが趣味であり、はじめの予定をぶち壊すことが楽しみなようだ。しかしよく考えてみればこれは昔からのことだった。私は登下校時、友人たちから出されたいくつかの突拍子もないキーワードを使って、即興で物語を作っていくということを毎日やっていた時期があり、あまりにへんてこな組み合わせのキーワードを出されるのでそれに負けないへんてこな展開で相手をびっくりさせることだけに集中して取り組んでいた。人を驚かせたり楽しませたりするのは私にとって唯一楽しいと思えるコミュニケーションだったので仕方がない、いつだってこうなってしまうのだ。ただ、この遊びは結構厄介で「大爆発して人類は滅亡しました」が毎回オチに使えるわけもなく、逃げのようなオチは本当にピンチのときにとっておかなければならない。どのようにしてそのキーワードを活かし、なるほどと思わせるか、それがいつも問題だった。この環境で私が手に入れたのは発想力だとかそんなすんごいものではなく、ああなんてこと、つじつま合わせの力だったのだ。キーワードをうまく使おうとおもっているというのは理性においての話であり、実際に話をしているときは発言するたびに相手をびっくりさせる、ということしか考えず、突拍子もない展開をどんどん即興で重ねることしかできなかった。もちろんその先をどうするかなど考える時間もないので、学校に着く前に私はなんとかして話をでっちあげ落ち着かせることが必要で、そんな窮地に毎回追い詰められることで無理やりつじつまを合わせることを覚えたのだ。もしこのとき、考えのないまま突っ走ることの危なさを知っていればもう少し計画性を手に入れたのかもしれないが、私はなぜかそのまったく逆に至ってしまったので、今でも「向き不向きがああ」とか情けないことを言っている。