十代を冷凍保存して百代にしよう。

十代が貴重と人は言うけれど、それは一般に言われている「尖っているから」ではなく、「平凡でいられるから」だと私は思います。
   
十代の頃というのは、みんなだいたい同じよーな悩みとか苛立ちを抱えているので(全員が「みんなと自分は違う!」と同時に言っているかんじ)、どんなに尖った感性のひとでも、どこかで一般の人が共感できるものを作れてしまう。だからその間に沢山のものをつくってみることは、特に尖っているタイプの人にとっては貴重な体験になるんじゃないかなー、とか最近思います。なんというか才能があっても、凡庸さがなければ一切届かないと思うのです。凡庸さが共感を呼ぶし、才能が記憶に残る。たとえるなら、凡庸さが共感によって受け手の心のドアを開けて、才能が、受け手の心の中に置き手紙を残すイメージです。ドアを開けなきゃ手紙は置けないし、ドアをあけても手紙が置けないなら意味がない。どっちが欠けても、他人に届けるには不十分だと思うのです。だから、みんながみんなどこかで凡庸でいられる十代とはとても貴重なのではないかなあ。
でも十代はその凡庸さにひきずられて本人が許せないタイプの駄作も数々作ってしまうこともありそうなかんじ。で、それを恐れて寡作になるのがすごいもったいないなあ、と思うのでした。