読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

 「人」がいない作品

ときどき、「君の作品は作るのが楽そうでいいね」とか「自分でも作れそう」とか言われて怒っている人がいるけれど(たとえば文章書きは文字だけだし楽そうだね、とか。)、私は、「苦労して作ったのだろうな」と察されるような作品は恥ずかしくて世に出す勇気がないし、それよりは「自分でも作れるよ」と思われる作品のほうがずっとましだと思う。簡単そうに見える、というのは、要は、単純明快で芯がきっちりとおっているか、もしくは共感が生じているということだ。もちろん、単純明快さや共感があることが、すべていいわけではないのも確かだけれど、私の場合は気を抜くとすぐだれにもわからないものを作ってしまうタイプの人間なので、共感があるという指摘はプラス要素になる。もちろん、共感だけがある状態でも駄目だし、個性だけがある状態もだめだとは思っている。(詳しくは昔のブログ記事「才能と凡庸が同居してやっと、天才になる。」)共感だけはあふれている人にとっては、共感があるなんてのは褒め言葉ではないのだろう。
また、作るのが楽そうというのは、「人が必死に作った」ということが作品の前面にでていないということでもある。作品のあちこちに、人が苦労している片鱗が見えているだなんて、未完成ってことじゃないかと私は思うし、絶対に、「大変だったでしょう」なんて言われたくない。実際に苦労しているかしていないかは関係なく、そう見えるということが屈辱なのだ。
足のマメを見せたがるバレリーナなんてどこにいるだろう。きっと彼女たちは「必死に練習したのだ」と悟られるよりも「あの人は生まれたときからこのように美しく舞えたのだ、なんの苦労もなく!」と信じさせてしまいたいはずだ。「こんなの作るの簡単そうだね」と言われることは、それぐらい誇らしいことだ。怒るだなんてもったいない。(そんな言葉より、芸術は苦痛が伴うものだ、血反吐を吐いて苦労するものだという、先入観のほうが、私は息苦しく思うよ。楽しいから、作っているに決まっているのにね。)
以前、萩尾望都先生の「半神」の原画を見て、まるで絵が紙にうかびあがってきたかのようだとおもった。その絵が人の手によるものとはどうしても見えず、まさしく大自然のように「はじめからそこにある」ようだった。「簡単そうに見える」というものの、果てであると思う。「ほとんど苦労が掛けられていないように見える」、という作品は、極めていけば、「一切、人の手がかかわっていないように見える」というふうにかわっていくのかもしれない。いままで「誰でも作れそう」だったものが、一転して「だれにも作れそうにない」ものになる。それはどんな苦労のあとが見える作品よりも困難に見え、すべての人類に不可能に見えるのだ。それは、人が死んでも生まれても、変わらず地上に残り続ける作品の、なんとも「らしい」あり方に思える。人の存在なんてまるでなかったみたいに、そこにありつづける。人なんて関係がないように。それは理想だ、わたしにとって。