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歌詞が日本語を更新するっていうそういう史実

BLANKEY JET CITYは中学生の時に聴いて、この世で日本語が一番かっこいいに違いないと確信した、きっかけのバンドです。どんな色より、どんな風より、日本語がかっこいい。「要は」とか「事柄」とか、そういう主に書き言葉として使われた言葉を、ソリッドでいて繊細な、どんな口語よりも刹那的な言葉に変換しちゃったもんな。こんなにかっこいい仕事が他にあるだろうか。しかし、私の中でBLANKEY JET CITYとはっぴいえんどはあまりに十代にすりこみすぎた音楽なので、もはや冷静に語ることができないのである。とにかくいいとしかいえない。とにかくいい。はっぴいえんどは、研ぎ澄まされた言葉は音楽でもあるのだということを教えてくれたバンド。高校時代、音楽だけが好きだった私が、言葉を書くことに夢を見た、そして永遠に書き続けたいと思ったきっかけ。
   
歌詞で言葉をおぼえました、というようなことをインタビューではよく言っていて、それはガチでそうで、基本的に、松本隆と浅井健一(あえて呼び捨て、もはや私にとって卑弥呼と同レベルの歴史上の人物)が私の言語を作ってしまったと思っています。今考えると、どちらもいわゆる「歌詞」として作られる言語から逸脱して、根本的な「日本語」の美しさやかっこよさを、掘り起こして、価値を更新してしまったところが共通しているな、とも思う。あとは文脈の切断。聞き手の想像力を徹底して信頼して、説明的なつながりをいっさい消し飛ばすところに、いさぎよさとかっこよさが芽生えるのだな。音がつくから、普通の詩よりもさらにつながりを削れるし。しかし私にとってはそれぐらいが一番良かった。書き手がなにをいいたいかなんてどうだっていいのだ、と思えるぐらいの遠さが、心地よかった。わかんなくて当然で、でもなにかがつきささってくる、あの感じ。言葉はこういう形が一番かっこいいし、これでこそ言葉だ、なんて思ったんだよね。なんでこういうのが氾濫してないの? 歌にしかないの? とも思ったんだな(ほんとは本にもあるんだけど気づいてなかった)。たぶん目的のある言葉を書くのが大嫌いだったからだろうね。
   
というわけで、ラジオではいつも、どちらかの曲は選曲していたりするのだ。そしたら先日は荻上チキさんもブランキー好きとのことで、盛り上がれて嬉しかった。(いつのまにか好きな音楽がかぶっても純粋に嬉しくなるようになってしまった、大人である)