クラッシュ・オブ・誕生日

家族と現在進行形の友達の誕生日をのぞいたら、セーラームーンと宇多田ヒカルと浅井健一の誕生日ぐらいしか覚えていない。そういえば最近知り合った人とか、仕事関係の人とか誕生日なんて知りたいとも思わない。大人になってから「誕生日いつ?」みたいな会話は無くなりましたね。というかもともとどうだってよかったですよね。セーラームーンはそこまですきじゃなかったはずなのに、なんか1年のちょうどまんなかなんだなって思ったせいで覚えている。たとえすきなアーティストであろうが、誕生日なんて正直どうでもいいんだけれど、暗証番号とかにするのにちょうどよくてそういう関係で覚えたりはしたけど、まあ、それ以上の情報価値はないよなあと思う。で、そんななのに、どうでもいいことだったのに、クラスメイトの誕生日、一種懸命覚えていたよなあ、と思う。今はフェイスブックが教えてくれるね。今日は誰の誕生日って。でも教えられて気づく誕生日になんの価値があるんだろう。血液型とか誕生日とか出身とかつきつめれば性別とか、そんなものはやっぱりその人自身の存在に比べればほんとうにどうだっていい情報で、だから何、と言ってしまえることなんだけれど、でも、そんなどうだっていい情報をいちいち覚えて、それに合わせて準備して祝おうとするその手間が、やさしさが、やはり唯一尊かったのだと思う。SNSでコンマ1秒表示に気づいて、あ、おめでとうございますー、って2秒で打ち込んで送るそのお祝いって、書いていてもやっぱりさみしくて、こんなのだったっけって思う。感情や、やさしさの、トリガーすらも、利便性に頼って鈍くなっていくのだけはやっぱり嫌だね。何も記憶するすべがなかったころ、スケジュール帳も持たず、もちろんSNSもなかったころ、なんとかちゃんは何月何日、っていちいち覚えて、前日にお祝いしなきゃーって思っていたあのころの感情が絶対的だ。絶対的。
   
東京タワーの光り方がどんどんどんどんおもちゃみたいになっていて、昔は豆電球をてんてんとつけていたんだっけ? どうだっけ? とにかくさ、大きいから光らすの大変!っていうかんじが光り方にも表れていた気がするのに、いまでは簡単に全身で光っちゃって、高いところから見たりしたらすごくおもちゃっぽいよね。ミニチュアっぽい。やっぱり科学は地球を小さくしていくのだろうか、概念的に。宇宙も狭くなるのかな。概念的に。しかし人は人として自分と同じ大きさのままなんだからそりゃ揉め事も増えるよね。