読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

未来と過去と今と言葉と写真と悪口

相手が強者だから傷つけていいのか。相手と一緒に自分も傷つくから傷つけていいのか。相手が自分を傷つけたから傷つけていいのか。相手が間違っているから傷つけていいのか。相手に聞こえないから傷つけていいのか。どれもこれもいいわけないだろ、あたりまえだろ、というそういうことを忘れる方法はただ一つ、最低な人間になるということで、簡単にナチュラルにそれはできてしまうのが人間ですけれど、みなさまいかがお過ごしですか。人が人に向ける悪口というのは、ことごとく好きじゃない、わけですけれど、この前テレビだったかで、女の人はグループ内で一人だけ悪口を言わないでいると追い出されるし、かといって言いすぎても追い出されるという話を聞いて、悪口というのは立派なコミュニケーションなのだなと思った。悪口ってみんな好きなのだよ。苦痛だけど、好きなんだよ。じゃないとあんな得もないことをやるひとがこんな多いわけもない。小学校の時に、何を話したらいいのかわからなかった私が最初に「みんなが好きなテーマ」だと見つけたの悪口で、でもそれを言うとすごくずきずきと、自分の影が重くなったような感覚になり、家に帰ってもそればかり思い出されてうんざりした覚えがある。悪い行為とはまず、罪悪感がつらいからやるべきではないのだな、と学んだ。で、そんなわけで、私、他人の悪口は良くないのでやめましょうと他人にまっすぐいうことはできない。だって罪悪感が辛いから私は言わない、というののどこが真っ当な思想なのだ。悪口は良くありませんという思想はとても美しく、それを心から信じているひとをみると素敵だと思うけれど、実際孤独がこわくて悪口を言うひとをそのひとはちゃんと思いやるの? そこからひっこみがつかなくなって悪口を言うのが癖になった人は? 私は悪口を言うとしんどいから嫌だし、あと友達とか減っても平気なので、言わないけれど、それは単純に快不快をてんびんにかけた結果だし、友達をそのために切り捨てたとも言える。みじんも美しくない。私の思想は単純に「悪口を言う人間についての悪口」でしかない。つまり冒頭部に書いたことはすべて私に刺さるわけだが、だからといって私が悪口を言う人間を否定したというその悪意がゆるされるわけではない。誰だって、なんだって、そうだよ。
    
たくさんの写真集を買ったら重くてしくしく泣きながら本屋から帰った。これがフルカラーの重みかと思った。本というもののなかでいちばん、写真集という概念が好きかもしれない。ときどきふと、いくらでも買おうという気持ちになるのです。すべてがすべてがすべてが過去であると思うと、しょうげきですよね。言葉もそうなんだけれど、言葉というのは、あやふやだから。(書く人間だからそう思うだけかもしれない。撮影する人にとっては「今」であり「未来」かもしれないのだよな。そういえば。こういう話は面白い。作る人間はどこか、それが未来であるような感覚になる時があるのではないかな、と私は私の経験上思うわけです。時間を縦割りにざくりと、きりおとして形にしたようなそんな感覚。私は今日これを書かなかったら10年後にこれを書いたかもしれない、みたいな、そういうとき。そういう瞬間。未来と今がおりたたんで、そしてきっとそこには過去もあり、でも、手に取る人からするとそれはすべて過去なのだという不思議。)