軌道エレベータークローゼット

模様替えだ。とにかくそういう話題だ。服が好きで、ほうっておくと私の言葉でできあがったお金は服に変わっていく。言葉があみこまれ、売られ、糸が編みこまれた布を買うだなんて…とかうまいのかうまくないのかよくわからないことも思う。とにかく服が多い。服が多すぎてタンスが足りなくて、この世で最も枯渇しやすいのは「場所」なのではないかと思うほどだ。時間だってお金だって、死活問題と言えるほどに困ってはいないけれど、でも場所は、タンスのスペースは…!!端的に言うと服が死にそう。東京の人口密度を超えるレベルで、服がひしめきあっている。
収集能力がどうこう言われるけれど、結局は場所があればいいんじゃないのかなあ。場所があればなんとでもなるじゃん。たとえば均一に棚を並べていって、棚に一つずつに服を入れるとか、そしたら、服屋さんみたいに収納できるじゃないのよさ。それじゃだめなのか。場所がないからって、こうちまちまとやっていくことがそんなに大事なのか!それよりもクローゼットを早く宇宙空間に飛ばして無限のスペースをよこせ!(無重力ならシワもつかないぞ!すごいぞ!)知恵より科学を尊重したい、ヤングな思想の持ち主・最果です。
  
季節っていいものだとは言うんだけれど、結局これって、旅行客視点だと思うんですがどうなんでしょう。そりゃ、ずっと冬の国から日本に行こうと思った時に四季のことを知ったら、わあすてき、って思うんだけれど、でもだからって、猛暑の日々をずーっと2ヶ月も過ごしたくないと思うんですけどどうなんでしょう。ひたすら同じ季節であれば、模様替えもないし、部屋の家電を入れ替えたりもしなくていいし、そういうのって、うらやましいんですけど正直。四季。別にもう話すことがないんで、季節の話をしてみたものの、特にひろがらないし、とにかく言いたいことは私は夏が嫌い。べたべたじとじとみーんみーん。アイスクリームだって冬に食べたほうがおいしい派だよ。空気だってくすんで、星空見えづらいし、やってらんないよねえ。いいのは、風が好きになれるってぐらいかな。
    

ネガティブ極めて、ポジティブへ。

関西ローカルの素晴らしい番組といえば、ナイトスクープが有名だけれど、私はちちんぷいぷいの「ロザンの道案内しよ!」もお勧めしたいわけです。ロザンというのはもちろん、あのクイズキング宇治原さんのコンビのことでございます。関西では、ロザンといえば宇治原さんより、相方の菅ちゃんのほうが印象が強いです。というのも、このちちんぷいぷいという関西ローカル番組のワンコーナー「道案内しよ!」(求む全国放送)での菅ちゃんが尋常ならざるポジティブだからです。このコーナー、内容は大変単純で、大阪駅でロザンの二人が迷子になっている人に道案内をする、というだけのもの。登場するのは、就活生や、旅行者、ライブに行こうとする女の子、おねえちゃんの卒業式に忘れ物を届けに来た女の子、などなど、関西によくある素人さんインタビュー系のコーナーなのですが、ずかずか土足どころかローラースケートで踏み込んでいき、素人さんのハートを開いていくロザン菅さんの強靭な精神力は他ではなかなか見られないものであり、また、これぞ「ポジティブ」と思い知らされるレベル。もう7年ぐらい(多分)このコーナー続くのも、当然、っていう感じなのです。
  
「ポジティブ」というのは才能です。私は以前、アンタッチャブルの柴田さんがポジティブ代表としてアメトークで言っていた、「こんなことしたら嫌われるかもとか不安に思うのは、現時点では自分が好かれているに違いないと思っているからだ。最初から嫌われていると思っていたら不安にも思わないはずだし、ポジティブに行動できる」みたいなこと(言葉は違ったかも。意味はこんな感じ)をツイッターで引用したのですが、菅さんのポジティブもそれです。決して、「めげない」とか「くじけない」とかそんな甘っちょろいものではなく、「めげる」という可能性などそもそもない。めげるのは、「受け入れられるはず」という期待があって、それが裏切られるからだし、そこを期待していないなら、「めげる」わけがない。自分は嫌われていたっておかしくない、知られていなくて当然、みたいな、かなりビターな精神状態で「だから、何も怖がることはない!」と発揮されている強さ・明るさなのです。特にそれがわかるのが、この道案内コーナーで外国人観光客を案内するとき。日本に来たばかりで、ロザンがタレントだなんてもちろん知らない警戒しまくりの観光客相手に、英語力があまりない菅さんは、文法を全て無視し、知っている英単語を並べまくり、コミュニケーションをやりきります。基本的に彼は最初、「from?」と聞きます。どこから来たん?です。そして「How long Japan?」と聞きます。「何日間日本に滞在するん?」です。直訳だと「日本の長さは?」とかになりますが、うそみたいなことに85%、これで通じます。さらに前は、スキーしに北海道に行くというアメリカからの観光客に、なんで北海道のスキー場を知ったの?口コミ?と聞こうと思ったらしく、「クチコ〜ミ?」って聞いた後、当然通じないので、「Talk,Talk,Talk,Talk…」と、口コミについて説明をしていました。通じていました。「そうそう、友達に聞いたのよ」みたいな返答を得ていました。なんなのでしょう。文法を正しく、とか思っている自分がばかばかしくなってきます。菅さんのコミュニケーションは、英語ですらポジティブなんですよね。「通じなくて当たり前」という感覚が下地になっていて、だからこそ正しく文法を使ってかっこよく、なんて思わずに、知っている単語を全部投げつけて全力でコミュニケーションをする。文法頑張ってやって通じなかったときは、頭真っ白になりますが、菅さんはそんなことはない。伝わるまで畳み掛けます。なんていうか、ポジティブの原点には、完全に甘えのないネガティブがあるのかなあ、などと思ったりもするのでした。
   

天体観測、しながら詩。

微妙にまだ2015年である実感がない。光がビュンビュン通り過ぎていく。どんなに急いで走っても、新幹線に乗っても、時間の方がずっと早く通り過ぎていくこと。どんなにやってもきっと時間をうまく使うことなんてできないんだ。そう思うから、もっと別の何かに目的を合わせて生きて行く。夜更かしは1日を延長するようで、ただ明日を前借りしているに過ぎないんだと昔ツイッターに書いたことがあって、今でもそれはわかっているのに、どうしても延長するつもりで夜更かし、してしまうね。別に書くことに夜も朝も昼もないし、太陽がしみて体に流れる血が、さらさら清流みたいになっていく感覚があるからできることなら朝を大事にしたい。ただの生物として。
   
大人になると夜中に外を歩くことがある。誰もいない街には、光と車だけがあって、しんとした空気。建物に人がたくさんいるのに、空気が止まって見えるなんてなあ、と思う。うごめくことすら異質みたいに見えて、ぺたぺたと走ってみたり、立ち止まってみたり。たぶん、私が子供のころはもっと夜は夜で、コンビニもなくて、24時間営業なんて異常なことで、まっくらななかに光が並んで、ときどき物流をつかさどるトラックが走り抜ける。ガタガタとゆれるコンテナの音、雨の音、しんという夜の無音があるからこそ、窓枠までささやかな物音が届いていたんだろうなあ。だとしたらこの時間は、今私が見ている夜はなんだろうか。夜空の雲が白く見えるのは、街のあかりが反射しているかららしいです。私が知っている夜空にはいつだって白い雲が浮いている。星は見えない。近いものばかりが輝いて、遠くの光をかき消していく。私は、星空が好きだ。夜が好きだ。それは青空が割れて、宇宙の端っこまで見えるように錯覚できるから。今の街に星空はない。見えたと思ったらそれは大抵、土星か火星か木星で、太陽系を私の視線は飛び出すことができない。ハワイに行きたいなあ。ハワイで天体観測。ハワイじゃなくても赤道近くで、星を見たいな。私は天体観測が好きです。ちいさな頃から宇宙図鑑が私の愛読書で、最初は太陽系、小学生時代は銀河系、それから興味が銀河群や超銀河団に移っていって、気づいたら宇宙の泡構造理論が大好きになった。いつか天体観測をしながら、見つけた星の詩とかエッセイを書く仕事とかできたらいいなあ、って思っています。
   

削れ、ペンを。削れ、命を。

自分以外の誰かに、なりたい、という感情が昔からわからない。その人自身になりたい、その人のようになりたいというほどの憧れに、身を焦がしたことがない。なんだか「生きる」こととは程遠く思えるのだ。誰だって自分の100%の代弁者とはなり得ないはずなのに、どうして、誰かの言葉を借りようとするのだろう。自分がどれほど薄っぺらくつまんなくても、同じ世代の子達が登場する歌や物語に共感して、その通りと頷くだけでいいわけがなかった。好きな食べ物・小さな癖、ちっぽけでも自分自身しか知らない、自分にしかわからない部分が自分には必ずあって、言葉でも映画でも音楽でも語りきれない存在が、自分なんじゃないのだろうか。そう、信じていたかった。簡単に「わかる」と、「共感できる」と、言ってしまうことで自意識が満足してしまうのが怖かった。大して特殊な感性を持っているわけではないかもしれない。けれど、私は自分の言葉を放棄することが怖い。それを探し続けることが、不器用に何度も言い直すことが、生きるってことじゃないのか。そう、高校生のころ思っていたのだ。
  
素晴らしい作品に出会った時、この世にはこの作品が存在していれば私なんていなくたってきっと問題はないんだという絶望的な気持ちになる。その作品の存在に圧倒されて、自分の存在価値を見失うのだ。そんな、ただの考えや気持ちを代弁してしまうだけでなく、「自分の存在」そのものを代弁しているかのような作品との出会いは幸福なものだ。これこそが人生を変える作品というものなんだろうと思いながら私は、圧倒されるたびに、世界にしがみくように作品を作りはじめていた。消えないよう、生き残ろうとするように、意識を尖らせていた。作品鑑賞は私にとってはいつだって、作品世界と自分の自意識のぶつかり合いで。あなたの表現があれば私にはもう語る必要なんてない。そう思ってしまうことが、私には敗北にしか思えず、「自分」を見失わないように、ペンを持った、言葉を書いた。だからこそ私を、圧倒する作品との出会いは幸福だ。もがくことで自分自身の輪郭が、浮き彫りになって、自分の言葉が導き出される。例えればきっと、私は鉛筆で、世界は鉛筆削りみたいなものだろう。作品群に自意識を削られながら、それでも尖り続け何かを書き残していく。「生きる」ってことだ。
   

コミュニケーション・ラビリンス

突然ですが私は、他人に質問することができないんです。みんなそれぞれがそれぞれでがんばればいい、と思っているし、他人に疑問を持つっていう状況がわからない。私は自分の話なんて退屈マックスだろうと思い込んでいて、自分から話すこともない。そうして結局沈黙がその場で生まれて、じりじりと砂漠みたいな、水を焼いたような空気が漂う。沈黙のあまりの長さに、あたしのこと嫌いでしょ、なんて言われたこともあるし、ええもうめんどくさい人類……と思うんだけれどみなさまいかがおすごしでしょうか。別に怒っちゃいませんよ、疲れているだけですよ。だいたいそもそも、質問って失礼なことだって思っていたのに、人のことを知りたがるのって下品だと思っていたのに、秋の空みたいにシフトチェンジしやがって! 逆に聞いちゃいけないことを聞いてしまいそうで、結局今でも最低限のマナーとして私は沈黙を選んでいく、それが、優しさなのです。親切なのです。博愛。ラブアンドピース。
といっても別に会話が嫌いな訳じゃない。ラジオとか打ち合わせとか、ちゃんと、目的が共有されているコミュニケーションはむしろ楽しい。ラジオだと人を楽します、とか。打ち合わせだと、仕事のこの部分を決める、とか。そういう、暗黙のルールだけじゃなくて、ちゃんと明確なルールがあって、それに従って話す、というのは人間のコミュニケーションって感じがするんだ。(他は全部、獣の所業だ!) 私はそういう時間を繰り返すことで、「あ、私まともに人と話せている!」と、人間としての失いかけた自信を取り戻しているのです。リハビリなんです。社会に出たのに、社会の仕組みでリハビリしてる。むしろ、どうして目的がない会話なんてこの世にはあるんだろう、社会の仕組みからはみ出ると、どうしてそればかりになるのだろう。誰も役割を負わないままなんとなく場を作って、話す人それぞれで期待しているものがぜんぜん違うまま進んでいくんだ。早く話を終わらせたい人、自分の話を聞いて欲しい人、自分に興味を持って欲しい人、そのなかの一人の話を聞きたい人、なにか情報を得たい人、ただただ言葉の応酬を楽しみたい人……迷宮にしか思えない。
  
そんなこんなで今でも会話は怖いのですが、一方で人の話というのはちょっとおもしろいのでは、と思うことも増えてきた。仕事する人がそれなりの年齢だからだろうと思う。物語を書くようになったからか、「人に歴史ありなのね」というような感覚が興味深い。編集者さんとかそれなりの年齢になった人って、意外な職歴があったり、学生時代があったり、するんですよね。初対面だとそんな話は出てきませんが、それなりに仕事していくと、ちらっとそういう話が聞けて思っていた以上に面白がる自分がいる。冷静に考えれば、まあ、そういう人もいますよね、ってぐらいの話なんだけれど、「現在」のその人と、「過去」のその人にギャップがあるせいで、そこに「物語」が見えてくるんだ。文章の場合「行間を読む」とか言いますけど、こういう場合でも、私は、その「現在」と「過去」の間を見ているんだろうな、と思います。「現在」がどんなにおもしろくても、過去がないならそれは出落ちでしかない。ちゃんとした「物語」が見えない。一時的な物事の側面ではなくて、時間軸に沿った物事の「過程」にこだわるのって、ものすごく人間っぽいですよね。生きること自体が死の「過程」でしかないからでしょうか。(急に話が大袈裟に。)
   

秩序は混乱のために。混乱は秩序のために。

Wikipediaの「(バンド)」っていう表記がかっこよすぎる。「テレヴィジョン(バンド)」とかなんなのかっこよすぎない? 注釈で「これはバンドです」って入るとか本当にかっこいいと思います。だって、テレビがバンド、って言われても、注釈と言葉の距離感すごすぎて理解できないし、それなのに詳しく説明せずに済まそうとするその「(バンド)」という短さが危うい。なんなの。混乱しか生まないぞ、その注釈。辞書じゃなかったのか、きみ。この世を整理整頓どころか、混乱させてどうするんだ! ああ、私も、「最果タヒ(バンド)」っていう項目作るためだけにバンドやりたい。人名とか、俗物的な物体の言葉に合いやすいですね。「(バンド)」。意味不明な表記をしれっと押し通すその、固有名詞だからいいじゃん、っていう態度が最高です。辞書のくせに、混乱しか生んでないよ! はっ、これがロック……?(余談ですがテレヴィジョンは「マーキームーン」が好きです)
   
テレビ見てたら、犬とおじさんが旅行どこに行こうっていってて、おじさんがそういえばチーズ食べたい、新しいチーズ、って言いだして、あ、チーズあそこにありそう、って、月に飛んでいくんですよ。ロケット手作りして。それでナイフで月のでっぱりとかバターナイフで削ってクラッカーにのせて、うまいうまい、カマンベールかな、とか言ってる映像がすばらしくて、まあ、これ、子供向けクレイアニメ「ウォレスとグルミット」の『チーズホリデー』なんですけど、この、子供が納得した上でわくわくしそうな「ずらし」が最高ですよね。月ってチーズなんだ! わあ〜って。なるんですよ、子供は。だって月行ったことないじゃん。きいろいじゃん。チーズかもしれないじゃん。「ないない」なんて言えないじゃない。子供はだから、納得するし、わくわくするし、そういうのが、子供向けのアニメや絵本には溢れていて、私はそうした、しれっとした夢の見せ方が好きです。しれっとね、ファンタジーやるんですよ。子供にとってはリアルになるように、しれっと。それって、最高に紳士ですよね。物語るひととして、最もジェントル。私はそんな大人になりたい。子供の「え? 本当?」って顔に、しれっとできる大人でいたい。しれっとファンタジー。大人だからできる、大人にしかできない、ワンダーのやりかた。最高。ちなみに、このお話、美術学校の卒業制作だったとWikipediaにあって、これはこれで私をいま、混乱させています……嘘だろニックパーク!
   
ウォレスとグルミット 3 クラッキング・アドベンチャーズ [DVD]

話の軸がどんどんずれていくブログ

本当に今日は書くことがなくて、うんざりしています。きっかけすらない。もう、マツコデラックスさんのこと書くしかないんじゃないか、って思ったんだけれど(週に2回ぐらいは思ってる)、ふと、書くことがないというその話で場をごまかそう、と思ったので、マツコさんの話はまた今度です。
  
なんにも言葉がでてこないときというのはあって、それは別に体調の悪さとかでもなんでもなくて、単に、書くという作業にそこまでときめかないというとき。どうしようもないし、対処もなにもないから、サクサクとインタビュー原稿の確認とか、ゲラ(意味:試し刷りみたいなの)とか見たりする。私は通常ゲラ確認が非常に苦手で、自分が直近で書いた文章を読むと、「ヘイヘーイ!」っていう書いているときのテンションに戻るので、緻密に間違いがないかという確認ができない。つらい。冷静に確認しようとすると、無理やりテンションが下がるからか一気に退屈になって、このままだと自分の書いたもの全てがつまんなく見えそうで、だんだん将来への不安とかが押し寄せてきていろんな意味で大変なのです。貯金額とか見る。読んでしまえば、冷静スイッチが入るのですが、やっぱり書いてからちょっとしか時間が経っていない原稿というのはうまく客観視ができない気がして苦手です。
逆に、時間が経過して、書いた記憶がほとんど残っていない原稿ほど見るのは簡単です。私は自分の書いたものってあんまり覚えていないので、時々、引用されているのを見て、「こんなの書いたっけ……? でも、たしかに私のリズムだなあ、ドッペルゲンガーかなあ」みたいなことがよくあるぐらい。時々、書いていた時に見ていたものとか、テレビの音とか、空気の温度とかを読むと鮮明に思い出すことはあるのですが、そのときですら書いた文面はほとんど覚えちゃいないので、私はほんとう、パソコンで文字列検索ができる時代に生まれてよかったって思っていますよ。ありがたいことですね、テクノロジー。うれしいですね、テクノロジー。そういえばハードSF好きの方には、MANGA ONEでやっている「堕天作戦」という漫画おすすめですよ。