ぼんやりとした人

私は伝えるということが苦手だ。というか必要性を感じない。言葉をやってる(なんだこの言い方)人間がこういうことをいうのはみょうちくりんかもしれないけれど、伝えるためなら詩など書かないだろうとさえ思う。だいいちわたしのペンネーム自体、いろいろ由来は予想されてるけどどれもナイ。由来はナイ。全部偶然。そのときのノリで決めてしまうのが根本にあって、そういう決断が軽率なところがわたし、というより「最果さん」であって名前がこうなんだから作品もそう。もちろん書いているときは真剣で、よく取材の場所とかで話させていただくのだけれど、内容自体を伝えたくて書いているわけではなく、書いたときの感覚がそのまま読み手に乗り移ることが理想です。切羽つまってる、とかおこってるとか、なごやか、とか。そういう感覚に理由なんてないし原因なんてないし物語なんてないが、とにかくそう思ったんだ!ていうのがわたしの内容で、それがうすっぺらいように、軽薄なように、思えるかもしれないけれど本気でその感情が存在したんだからそうではないだろうと信じたい。だいたい感情に理由なんて常にあるものなのか? だから、よく作品をよんでいただいて妙に恋愛要素に解釈していただいたりだとか、反抗期とかもろもろ、解釈してくださったのを教えていただいて、なにかそこでその人と私の間に(どちらの所有でもない)物語が構築されていくのがおもしろくもあり、不安でもあり、そこにあるのはすでにわたしではないし(私の作品はわたしがわたしなのか、と問われればそれもわからないけれど)、だからその物語の主人公を介して、書き手は読み手を見るし、読み手は書き手を見ていて、どちらも、物語の主人公は相手であると思っている。ような気がする。でも本質、作品ってのは作者にとっては完成した後は手から離れていくだけのものなので、その妙な再構築が面白いなと思う以外は特にないデスケドモ。