少女マンガの品格

 某人気少女マンガとか見ていると、主要女キャラがひねくれていたり、本質が嫌な女であることが多く、それはいいとしても、それを「仕方ないじゃない、そういう生き物なんだもん」みたいな感じでつっぱしることを良しとしがちなのがすごく気持ち悪い。少女マンガってそんなのだっけって思う。とある少女漫画家は、少女マンガの仕事を「女の子がどう生きたら幸せになるかを教えてあげること」といっていて、わたしはそこにものすごい感動をしたことがある。幼いころに読んだもの、食べたもの、見たものはすべてその人の人格を作っていくのだということを、大人は心に刻んでおくべきだ。
 たとえば矢沢あいの「天使なんかじゃない」は恋愛にあこがれるりぼん世代の少女たちにとっては、翠と晃の恋愛こそが注目されるものであったのだろうけれど、すこし年を経たあとに読み返せばもっとも心に残っていたのは、他人に対して常に正直にあろうとするマミリンという脇役の存在だと気づく。あのマミリンという女の子は、一見高飛車で、かわいげもない女の子だけれど、実際のところ他人に対してまったくひねくれたところがなくて、つねに正直にぶつかり、そしてやさしく接してきていた。その正直さが態度に表れていただけなのだ。主人公の翠が目に明らかなほど「明るく元気」で、女の子にとって理想の女の子であった反面、女の子にありがちな弱さも持ち合わせていて、これが読者にとっては共感の的となっていたけれど、マミリンにはそういった欠点がない。立派とすらいえる彼女の優しさは恋のライバルに対してさえ発揮されていたし、翠のだめなところ、なら指摘できてもマミリンのだめなところなんて、指摘できるわけが無かった。この作品において、少女マンガの仕事はここに発揮されていたのだろうと思う。現実の女の子である翠が、さまざまな困難を乗り越えて、自分の欠点を補い、そして周りにサポートされながら幸せになっていく反面、非現実的ともいえる理想の女の子であるマミリンは、最後まで理想的であるまま、幸せを勝ち取っていく。翠という存在で「きっと君にも理解してくれる素敵な仲間が出来て、がんばって欠点を乗り越えたら必ず幸せになれるよ!」という現実的な希望を打ち出した上で、翠の友達というマミリンのポジションで、女の子がもっとも幸せになる真のモデルを示していたのではないだろうか。
 最近の少女マンガを大して読んでいるわけでもないのだけれど、数年前友人たちの間でブームになっていた某人気少女マンガでは、マミリンみたいな女の子はいなかった。だからドロドロした感情が当たり前になってしまうし、むしろそれが「リアル」と「バカウケ」らしい。けれどそれをどう乗り越えて、清く正しい女の子になるか、ではなく、そのドロドロを受け入れた上でどれほど強く生きていくか、みたいなことがテーマになっている。こんなものは小学生や幼稚園児が読むものではない。(正直天使なんかじゃないもちょっとやりすぎ展開があって幼少期はひいた思い出がある)たしかにそういった強さも現実には必要になるのかもしれないが、それは多くの恋をしたのちに知ればいいのだし、そのときに共感をもってOLや主婦が読むものだ。ディズニー仕込の恋愛への憧れを抱いた女の子たちにはもっと夢を売るべきだとわたしは思う。
にしても幼児期に読んだマンガというのはとことん出版停止になっていて、そういうところがとても気に食わない。なぜ読者が大人になったとき、再会を望むことを考えないのだろう。大ヒット作品の話ではない。もっと中堅レベルで売れていた作品のことだ。少女雑誌、少年雑誌を展開するならば、そののちの思い出補正だって考えるべきだし、そこに必要なのは誰もがもつ共通の思い出ではなく、個人個人の異なった思い出だ。せめて彼らが社会人になり、大人買いが可能になるころまでは、それなりに売れていた作品はわずかでも販売の幅を作っておいてほしい。
   
天使なんかじゃない―完全版 (1)
  
ちなみにわたしは矢沢あいのファンではアリマセン。ご近所もNANAも読まない。
小さいころからギャグがすき。