戦うか、戦わないかをフォーク片手に考える。

来たな、3月。
   
快・不快で物事を考えるのがいちばん自然であると思う。人の諸問題に興味がわかない。愛だとか恨みだとか嫉妬だとか呪いだとか性だとか、そんなに頭に占めるべきことかと思っている。自分が人なんだから、人のことを考える必要はもうその時点でないと思うんだ。小さなころから蟻とか宇宙のことを考えるほうが好きだった。だって私は蟻でも宇宙でもないから。
「私」という人間にも深く興味はなく、出来事は出来事としてとらえているから、そこから派生する感情は薄い。そうそう絶望なども知らず、へいたんな気がするけれど、へいたんだといわれると違うよなと思う。ぎざぎざの中生きているけれど、そのぎざぎざを見ていないだけではなかろうか。それをドラマチック好きは「気の毒」と言うけれど、私はなぜか毎日手ごたえがある生き方をしている。たくさんの目的を見つめてそのために積み木をやっている気がする。私がなんのために毎日生きているかと言えば、冗談じゃなく普通にたくさんの夢とか野望を現実にするためだと思っている。
「私」も「女」も「命」も、深く考えないし、思春期みたいに「なんでそんなに考えなあかんの?」とも思っていない、たぶん。最近は考えなければならないわけではない、と気づいたから「薄情な若者」ということを言い訳にして、毎日を確実に過ごすことを優先している。でもたくさんの作品をつくったり、勉強をしたり、ある夢のために特訓したりしている間、じゃあ私はなにを糧に作品を作っているのだろうか?と思うときもあり、その無感覚が気持ち悪くもあるけれど、一方でそういうところにどっぷりのものに車酔いしたりしている日もある。むかしは作品に妊娠とかよく書いていたけれど、ずっとうわっつらなかんじだったし、読んだかんじもそうだってよく言われていた。いつみんなは自分が生きているなって、女だなって、いつか子供を生むんだな、って思うの? 普通に明日はもっと上手に絵が書けるかなとか、小説が書けるかな、とか明日は友達と遊びに行くけど楽しいかなとか、宇宙はどこまで広がっているのかな、時間ってどこからどこまでなのかな、とかそういうこと考えていたら、日は終わっていくんじゃないのかなぁ。よくわからない。人は人のことを考えるために生まれたって本当なのか? そんなの無駄じゃないだろうか。勝手に生まれてきて生きているんだから、それはもうそれで答えなんじゃないだろうか。現代っ子がいのちを意識するときって、いつ?
   
後輩が潔癖症と私のことを言う。