「蹴りたい背中」の二重構造

蹴りたい背中」(綿矢りさ)では主人公ハツが自分と同じようにクラスで疎外されたにな川と接点が出来ることで物語が始まる。物語の終盤でハツの友人絹代がにな川に対するハツの感情が恋愛感情であると指摘するが、ハツはそれを否定した。物語はハツの感情の名をはっきりとつけることはなく、最後まで「蹴る」行為のみがハツの正直な感情の表れだっただろう。「蹴りたい背中」で描かれた自分(ハツ)とよく似た他者(にな川)への自己愛と自己嫌悪の投影、そしてそこに浮上してきたにな川にあって自分にはないもの(執着する存在、オリチャン)に対する焦躁と憧れ、その入り混じった感情の結末が「蹴る」という行為であって、その感情はなにか名前のある感情に区分けしようとするものなら、一気にもろく崩れてしまうような繊細であいまいなものだった。しかし少年少女の心のありかたというのは、それこそが自然な形である。なんでも感情を名づけようとする行為はあまりにも不純で、感情を感情あらざるものにする過ちでしかない。考えることを放棄し感情があふれ出ていた子供時代から、感情を押さえ込み、考えることを覚えた青春時代に移り変わっていくうちに、考えるために感情をあえて切り崩し、単純化して理解しようとしてしまう。そしてそれを乗り越えてしまったとき、大人、というものになるのだろう。絹代の「恋愛」という指摘を拒否したハツはその瞬間、ありのままの自分の感情を守ろうとした。しかしハツの思いとは逆に、あいまいであることが当然であるはずの感情を、恋愛と記号化しようとする周囲(絹代)という図は、表題の「蹴りたい」という感情に対する読者の「ひねくれた愛情」という解釈にも見られがちで切ない。
   
以前twitterで投稿した短文を改訂しました。