優しくなりたいと思うより先に、丁寧になりたいと思うし、だからこそ、花とか草とか育てようとするんだろうな。草花に水をやる時の、あの慈愛でもなんでもない、でも、習慣だけではない、どこかにあるであろう特別な感情。それはなんだか人間の本質っぽくて、愛だとかいう言葉が入ってこれないかんじがとてもいいな、と思う。育てる、というのはどうしても手間がかかっていて、ちょっとだけ、報われないところがあって、それでいて植物はあまりにも自分と異なっているから、簡単には自分がやっていることがいいことだとは思えない。共感ができないから。それでも、ちゃんと毎日水をやるというのはどういう感覚なんだろう。ガーデニングが趣味な人は毎朝ちゃんと起きて、そして水を汲んで彼らに与える。その行為はいったい、どこにつながっているのだろう。
太陽だとか月のあの規則正しい感じは、ときどき「もう!」と、私をあせらせる。なんであんなに月は規則正しく欠けるのか。なんてね、月も聞かれたって困るだろうけどそんなことで、頭の奥がちょっとだけピリピリする。太陽も毎朝ちゃんとのぼってくるしさ。月に1回ぐらい、月食とか日食とか、起きてくれないと、なんだか自分が不適合生物な気がして悲しい、なんてことを、時間通りにやってきて時間通りに出発する電車に乗っている時に考えていた。自分以外はすべて規則正しい方が、絶対に便利であるはずなのに、それじゃあ我慢できないところがある。ずれていくことや、あいまいであることを世界に求めるのは、なんなんだろうな。簡単に枯れる植物とか、そういう面ではかわいいよね。そういえば。
生物というのは、ちょっとどうなるのかわからない、というところがリスクでもあって、そうしたところが一番の愛嬌でもあるのかもしれない。私は基本的に動物が苦手で、幼い頃、動物園のふれあい広場的なところとかは、なんのためにあるのかわからなかったし、ちかづいたこともないぐらいだ。それは、なにをするかわからない、という事実が満ち溢れているから。怖いやん? それはある人にとっては一番の可愛さであるのかもしれないし、それこそが肯定であるのかもしれない。植物においては、枯れてしまうことだって、それはひとつの植物が示した態度で、愛するのが普通であるのかもしれなかった。
人間は、思った通りの返答をしないから、小さな頃はそれが無性に怖かった。こう答えるだろうと想像して投げた言葉に、まったく想像もしない返答がかえってきたりして、それが会話のおもしろさであり、会話をする意味だ、なんていうふうに思えたのは高校生とか、大人になってからだ。人間は予想外のものだ、というのが本当に嫌だったし、なんでそんな予想できないものが私の周りには満ちていて、それらと関わらないと生きていけないシステムになっているのか、全然理解ができなかった。だって、怖いやん? そのころ、太陽も月も、規則正しくて、それに疑問を抱いたこともなかった。私にとっては不条理こそ敵で、その象徴が、生物のあの勝手さだったんだろう。それを受け入れるには、それをおもしろい、と思うには、自分が自分の不条理さに慣れていくしかない。完全に間違いなく行動するのが人間として正しい、なんてことはないのだと、しつけや教育からはみ出たところで知るしかない。ルールは不条理な集団だからこそあるのだと、知るまでは、ルールそのものとして、その不条理に怯えるしかないんだろう。なんだろう、この話。
ガーデニングが好きとかいう人が、ある程度大人に見えるのはもしかしたらこういうことが理由なのかな、とも思う。どんなに水をやったって、肥料をやったって、枯れる時は枯れるし、その理由を語ってくれはしないし、それでも一方で、妙に良く育つことだってあるだろう。花屋さんの言った通りにしたのにな、と思いながら、枯れてしまった鉢植えを見るとき、申し訳ないとは思いつつも、それで「育てて損した」とは思わないのは、たぶん、その結果のあいまいさを最初から承知しているからで、そこに命というものの定義が存在している。死んでしまう可能性はいつだってすべての生物に存在している。それが生物の定義なのかもしれないね。