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結局なんの話だったんですかね。

売れるとか売れないとかそういうことなんて詩には何も関係がなくて、私は読まれたいという気持ちから言葉が生まれるから読まれたいけどもちろんそれがすべての人にあてはまるわけもなく、みんな好き勝手にやるのが一番だし普通だし、私が言わなくても勝手にそうなっていると思う。読まれることは詩において一要素でしかなくそれを重視するか否かは人によるしそれでいいし、そこにいいも悪いもないというか、そこにいい悪いをつけるのは、筋肉マニアが「マッチョはいいぞ!きみもマッチョになろうではないか!」って所構わずジム入会を迫るようなもので、そんな最悪な価値観滅んだ方がいい。マッチョになりたい人もいればなりたくない人もいる。そこにいい悪いもない。ただ私はマッチョになりたかった、それだけのこと。どうですか、例え話をつかうことで真剣そうな話もライトに聞こえませんか。例え話とかメタファーで、話をそらしたりごまかしたりするのがうまい人は、非常にモテそうに見えると思うんですが、その例え話がくだらないかんじだと、一気にしょぼくみえるというその典型ですね。
   
自分が好きな食べ物が嫌いな人が、それがなぜか嫌いなのかを説明しているの、すごい面白い。人の好き嫌いのあの理不尽さは最高で、「くにゃってするじゃん!あれが嫌!」とかいうこの言葉の、理性のなさ。遠慮のなさ。いつからそれが始まっているのかもわからないし、でもとにかくそれが嫌いで、「うげー」ってなるんだからすごい。でも「アレルギーなんだよね」とか言われると、そういう話は今していないのでさっさともっと身勝手な嫌いな食べ物を言え!と思うのだった。嫌いな食べ物に対しての発言はみんな、こう、容赦なくて面白い。メロンが嫌い、臭い、とかいう話をメロンが聞いちゃったらどうするんだ、メロン傷つくぞ、とか一切考えていないのがすごい。きもいだの、存在が信じられないだの、どんどん吐き捨てるように言って欲しい。意味不明だがその意味不明がたぶんきみのアイデンティティーだ!(こういう話、書いてて、楽しいの多分私だけですよね)好きな音楽だの好きな作家だのそういうものを発言するとそれだけで否定されたりする人もいて、まあそういう、他人がなにを好きか、そして嫌いかというそれだけの情報で、その人自身に評価を下そうとするのはひたすらくだらない文化なんですけれど、でもそうした文化があるせいで、好きなものと嫌いなものを好き勝手に言えないところもやっぱりあって、無意識にそんな本能的なところにまで「共感」求めちゃったりするんですよね。これが好きなんだけど……って他人の顔色を見なくちゃいけないときがある。かなしいことだ。共感を求めない「感想」というのがやっぱり絶対的だと思うし、誰もわかってくれなくたって主張したいっていうその気持ち、それがそのひとの最強だと思うんです。わかってくれなくていいよ、でもあのトマトの青臭さはムカつく。それでいいじゃないですか。生理的に受け付けないという言葉とか、そういうのってまあ、理不尽なんだけれど、まあ真理だなあ、と思う。どうしようもない。いやなんだし。そういうのを堂々と主張している姿を見られるので、やっぱり嫌いな食べ物についての話はおもしろいなあ、と思いますし(といっても嫌いな食べ物を作っている農家の方の前でしてはいけない)ということで私はしいたけが生理的に無理でして、撲滅したい気持ちでいます。ナスもな。
   
SPURの2月号の電気グルーヴのインタビューが面白かった。「ピエール瀧の担当パートは"瀧"」という話をしていて、要するに「客の代表としてステージに上がっている」ようなものだという話になってそれも非常に納得が行ったんだけれど、なにより、そういう人が今までいなくて1から作っていったのに、そこに追随する人もいない、みたいな話になったあと、あ、そういえばゴールデンボンバーは全員「瀧」だな、という結論に達していたのがたいへんおもしろかったので、ご報告しておきます。