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運動神経未完成的自我

人間ってなんであんなに俊敏なんだ、動けるんだ、と思っている。私はどうしても全身に神経がゆきとどいていないかんじがして、声だとか動きだとかがまったくコントロールできていない。ような不満感が常にあり、だからこそ私はものを作ることが楽しいのかもしれません。書くという行為は内面での運動でしかないから、つまり内→外に変換する必要がないから、神経はちゃんとゆきとどいている。素手で粘土をこねている感覚。身体の運動は逆にマジックハンドとかで3メートル先の粘土こねている感覚。まあ、そんなわけでとにかく毎日、自分以外の人間がとんでもなく俊敏で、自分のような不器用さは誰も持ち合わせていないようなそんな不安と同居をしています。
   
自分の字や、声が気持ち悪くて仕方がないというそういう現象はほとんどの人にあるらしく、私もやっぱり自分の字は気持ち悪いし、なにもかもが不安定な気がしてしまう。自分の指先でなんとかなってしまうもの、少しのぶれも反映されてしまうものがそもそもものすごく苦手で、手書きで原稿書くとか本当に無理だ。指先をミリ単位でコントロールしている気が全くしなくて、だいたいで動かしている、というその事実が耐えられない、それは私の字ではない。声も私の声ではない。(だいたい自分に聞こえている自分の声が他人に聞こえている声と違うとか詐欺でしかない。)しかし私から生まれたものとして固定される。絵とかかいちゃえる人は本当にすごい、そう思う。私は指の神経の2%ぐらいしか稼働してないのではないかと本気で思っている。だからこそ、スポーツ選手にも失敗があり、「うまくいかない」ことの方が多く、それでいてそのボーダーを突破してしまえる瞬間もあるのだという話は私にとって興味深い。身体能力に優れているということは、決してコントロールが万全である、ということではないのだということ。身体はどこまでも意思とは別物として存在している。
   
世界というのはなんていうか結果しかそこにはなくて、私はそれを観察するだけだから、どれもこれもコントロールされた結果に思えるのだけれど、結局はなんらかの意図や神経がゆきとどいていない結果であることが多くあり、私はそれを把握できない。だから、人が自分を惨めに思うことや、劣等感を持つことは、非常に自然な流れであり、一方で、コントロールができれば万能なのだという、永遠に不可能だからこそ抱ける無敵感もあるはずで、そうやってプラスでもマイナスでも自分は特別になる。主体というもののはそうやって構築されるのかもね。という連休の産物らしい曖昧な結論。