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オリンピックが今年も。

スポーツ。
オリンピック見ていますか。私はほとんど見ていないんですけれど、それでもやっぱり勝った負けたの話は飛び込んでくるし、すごいな、と思うことも多い。スポーツのこと、詳しいわけではないし、そもそも好きになったこともないのに、こうやって気になってしまうのはオリンピックの凄さだなと思う。
どんなに凄いと思ったって、それまで全然その苦労を知らなくって、もちろん世界大会とかの成績も知らなくって、今さっきテレビで言っていた情報を吸収して「すごいな」って思っている私の感動がどれぐらい安いのかって考えはじめたらたぶんいろんなことを思ってしまうんだろうけれど、私は小学校の時に先生が見せてくれた長野オリンピックのことを思い出して、まあ、「すごい」っていう気持ちが軽薄でもいいかって思い直す。あのとき私は体育が大嫌いで、そもそもスポーツなんて見るのも嫌いで、野球ファンもサッカーファンも家にはいなかったからから観戦する習慣はなくて、そういう中ではじまった長野オリンピックについて大して興味はなかった。冬季と夏季の違いなんてわからないしさ、応援するという行為もまだよく知らなくて、人が人を応援するってどういうことなんだろうと戸惑いもした。必死で戦ったことのない私に、その意味がわかるわけもなかった。でも、それでも、映像を見ていて「すごい」と確かに思えたこと、それはなんとなく覚えている。
    
経験していないことを想像するのはやっぱりむずかしいし、小さな頃はそうだったな、他人の痛みを想像して、それに合わせて優しくなる、ということがどうしてもできなくてまごついた。他人の痛みを想像する、というのがなんだか悪いことしているみたいでどうしても苦手だった。あの子は他の子より身長が高いからとか、あの子は他の子より運動ができないからとか、あの子は他の子よりしゃべるのがへただから、とか、そういうのいちいち気にしてそういうひとのために気を使うって、もちろん「やさしさ」としてアウトプットはされるけれど、それでも最初の「相手の痛みに注目する」っていう行為には罪悪感がある。陰口を言ってるひととなんか目線の高さが同じだなあ、なんて気にしても仕方がないことを考えてしまう。他人が他人に対して親切にしているところを見たらちゃんと尊敬するんだけれど、自分がやる場合、過程ばかりが気になっていた。誰が弱くて誰が強いっていうのを意識するのってしんどい。親切をする側はどうしても強い側になってしまうし、余計に、弱い人を探すみたいでしんどかった。
他者というのはあくまで他者で、開き直って、ある意味システム的に、「あの人は助けを求めている」って判断できるようになるのが人間としての成長ではあるだろうと思う。そもそも自分に対していい顔したって意味はないから、過程が気になろうが結果だけが全てだろ、とも言えて。でも、当時はそういったことがちゃんとわからなくて、わかったところで器用に発想を変えられるわけもない。
   
応援は、親切のあの感じによく似ているのかもしれないな、なんてちょっと思う。もっともっと遠回り、というかなんだか遠いかんじはするけど。先生にせっかくだしオリンピックの選手を応援しようって言われて、テレビを見せられた時、「え、これ、見て、どうしたらいいんですか」と正直に思ったのを覚えている。クラスメイトが応援を始めて、「がんばれ」と言いだして、なるほどそうするのか、と納得したけれど、「がんばれ」ってどういう意味の言葉なのか、それでもやっぱりふわふわしていた。家族とか知り合いならともかく、全く知らなかった選手を応援するとき、距離がすごくあるじゃないですか。本当にこれでいいのかなあ、と思ってしまう。(ちょうど見ていたのはスキージャンプで、スキージャンプという競技自体そのときに知った、というのも大きかった)私はこの選手の名前もちゃんと知らなくって、それでいてその人たちに「がんばれ」っていうのって、その人たちにとって意味あるんだろうか。そもそもスポーツを熱心にやったことがないから、応援が力になる、ということ自体を私は知らない。別に「がんばれ」って言葉に嫌悪感があったわけではないけれど、この言葉が私の血肉になって、ちゃんと消化され吐き出されたものではなかったから、そういう自分のなさみたいなのが「ふわふわ」を呼んだ。みんなが言っているから言っている、だけだ。あってるかな、って不安で、そして今は、そんなの不安で当たり前だろ、とか言いたい。
スポーツでがんばる人がどういう気持ちでいるのか、なんて想像がつくわけない。苦労とか痛みとか、そういうのを想像して、慮ることが、彼らの望みなのかはわからない。世界という舞台で生中継なんてされて、地元とか職場の人たちがメガホン持ってテレビに向かって声援を送って、小さな子供が「私もこんな選手になりたい」なんて言っているかもしれなくて、もしくはそう言われている選手の相手をしているのかもしれなくて。げえっ、っていうかこれ、書いた先からフィクションくさいですね。ストーリーくさい。あるひとりの人間の人生がこんな起承転結綺麗に整っているわけがない。どんなに情報を得たって、頭を働かせたって、結局他人のことなんて、いい感じに四捨五入したストーリーとしてしか消化できないんだなあ。
    
クラスメイトに優しくする時に「自分がそうだったらどうか考えなさい」と言われて、そのたびに相手を逆に傷付けたりして、自分との感覚のずれにがっかりしていた。切り離しなさいとは誰も言わなかったし、だから自分verを作って考えようともしたけれどやっぱり限界はちゃんとあった。そんななかで私は、最初は戸惑いつつも、なんだかんだで手放しに「すごい」なんてオリンピックを見て思っちゃって、あ、すごく楽だ、と思ったんだよな。そのとき、ちゃんと軽薄に、なれていた。自分とは違う人たち、と彼らを見つめ、自分にはどうしたって真似できない、なんて簡単に線を引いて、自分と切り離して見つめていた。そういうのがいいことかどうかっていうのは未だによくわからないけれど、それでもそれが私にとっては安心だった。「すごい」と思えたら、「がんばれ」と言うことにも慣れていって、メダルをとったころには自分のことみたいによろこんでしまった。あれって、もしかして彼らが「弱者」には見えなかったからなのかな、なんて今はちょっと思う。親切になるために弱い人を探す、というのはなんか抵抗があったけれど、強い人を探す、というのは別になんとも思わない。なんて現金。でもその可能性は大。この人たちは強いんだ、すごい、と思うたびに私は「がんばれ」って言えていた。特に知らなかったのに、関係なかったのに、テレビで見ているだけなのに、ふと気づいたら応援できていたっていうそのことは、私にとって選手がとても「頼もしく」見えたからなのかなーなんてことを思う本日ですよ。あー、暑い!