私をきみの黒歴史にして。

わからなくなりたい。あのころ大好きだった映画や音楽や本が、今見るとどうしていいと思ったのかちっともわからない、みたいなことが溢れるような人生でありたい。おいしいとおもっていたファーストフードが受け入れられなくなったり、逆にあのころ大嫌いだったものが美味しいと感じられたり、そういうことの繰り返しで、細胞よりももっと明らかに私という存在は生まれ変わり続けるなんてふざけたことを思っている。今、好きだと思ったものが、そのうち大して好きじゃなくなるんだろうという予感とともに、なにかを好きになっていくのは居心地がいい。なにもかもは使い捨てだと思う。なにもかもは使い捨てでいいと思う。ときどき、昔から好きなままのなにかが現れて、「うわっ」と驚くぐらいでいい。
   
どうしてあんなに夢中になれたのかわからないと、友人が過去の映画について話していて、それはもう少し昔はもっともっと困惑に満ちた台詞だったし、確実にきみは昔の自分を軽蔑しているよねという口調だった。いつのまに受け入れたんだろうな、なんてことを観察しながら話を聞いているのが楽しい。黒歴史、という言葉は最近あまり使われなくなったけれど(単純に私の周囲の年齢が社会に染まっただけかもしれない)、黒歴史はそのうちなんだって「懐かしさ」という言葉一つで浄化されて、ちょっと退屈な見え方をするよなあと思う。好きが嫌悪になるうちは、どちらの感情も現象も刺激的で、へたにふれたら怪我をしそうなのが最高で、大して変わらない気がする。逆に、忘れてしまったり無関心になってしまうとそんな危険性がなくなるし、私はやっぱりどこか地雷のある人と喋っていたいんだな。人間が人間と会話するのは、マナー講座みたいなやりとりをするためでも、世間話で時間を埋めることでもなく、相手のよくわからないこだわりに触れて、時には怒られ、時には喜ばれ、「なんて理不尽!」と思うため。私もそういうときに「なんて理不尽!」と言われていたい。他人の感情はコントロール不可能であってほしい。
懐かしさというのは過去をフラットなものにしてしまうし、人間は過去の蓄積だから、人そのものがフラットになっていく。昔、自分の作品が誰かの黒歴史になればいいな、と思っていて、たぶんそれもこうしたことが関係するんだろう。好きでいてもらえることは嬉しくて、でもそれがずっと永遠に続け!っていう気持ちとともに、最悪な思い出になったらそれはそれですごいな、と思う。本や映画や音楽への「好き」という感情は、簡単に消費されて忘れられて「なんで好きだったんだろう」と言い放つことすら許されているから、だからこそまぶしいって思う。軽薄でいいからこそ、直感のまま「好き」って思える。他人を納得させるための根拠なんて用意もせずに、ただ「好きなのは好きだしそれの何が悪い」って言える。自分にすら一貫性がない感情を、その瞬間信じられるその強度が、その人の「自我」そのものではないの。だから、ものを作る限り、その奔放さに作品を斬りつけられたい。きみの、一番直感的で最強な部分に、さらされ殴られ続けたい。