感情の娯楽性

買って3年間ぐらいクローゼットに放置してたカーディガンを着た。なぜ全く着なかったのか、ということがわからないぐらい気に入った。私は小さい頃、流行とか全然気にしてない子供だったので、急に友達とかが、今これが熱いみたいに言い出すのが超怖かった。どんどんいいと彼女達がいうものは変わって、それについていけないから、「いい」という感性が自分にはないような気がした。流行ってるものに関心がそんなになかったせいだと思うんだけど、でもそんなことは知らないし、すべてはその子たちが自分で発掘してきたものだと思っていたから、自分だけが遅れているようで、人間として自信がなくなっていた。
   

服とか音楽とかめちゃくちゃ好きなものができるまでは、流行に興味がなくても、なぜかそれについていかなくちゃという恐怖心があって、その恐怖ほど無意味なものもなかったと思う。好きなものがある、という事実は、どんな事実より強く、それでいて障害のない自己主張だから、未熟であればあるほどそのことで会話は満たされていく。好きなものがあって、それをみんなで「ああ、あれいいよね」って言い合っていることは、そこに同調できない人間からしたら何よりも恐ろしく、それでいてすべて、自分が悪いのだとしか思えない。とにかく、あんまり頑張って生きてるかんじがしていないんだ。十代のころはひたすらぼんやりして、気づかない間にみんな大人になろうとして、女性になろうとして、そういうやる気がない自分がぽとりと置き去りにされているかんじ。なに話してんだろ、とずっと困惑しているそんな自分が心配で仕方なく、好きなものがないということ自体が、人間として未完成な気がした。それになにより、みんなの「好き」の距離感、コミュニケーションの道具として使われる「好き」がどうもなじまなかったし、つかめなかったんだ。
なんかよくわからないですけど、自分だけが好きなものがあればきっとそれにたちむかえたはずで、それこそ「お前たちは知らないんだろうけどな!」と思いながらマニアックな趣味を持つことは、自衛としては機能しただろうとも思う。でも私はそれすらできていなかった。好きなものを見つけて、それが自分を語るものになるのだということ自体がぴんとこず、自分が何を好きなのか、ということ自体を改めて考えずに中学生になっていた。感動したってそれを他人に伝えたいとも思わないし、食べてわざわざ「おいしい!」と作った人でもない相手に伝える意味もわかっておらず、とにかく感情を共有する意味がわからなかったから、そうやって「好き」を交換することで会話が成立することに面食らったのだろうなと思う。感情はエンタメではないしな、という謎の意識があった。
   
めちゃくちゃ好きなものができたときに、他人にすすめるということがやっぱりどうしてもできなくて、というかすすめたいとか共有したいとも思わなくて、好きなものを持ったら持ったで、その内容によって優劣をつけたがる他人がいるのだということにうんざりもしていた。趣味とは孤独なものであって、なんの自衛にもならないし、なにかの自衛に使おうとした時点で不純なのだとも思った。でも、あるとき偶然に同じ音楽を聴いている子と、会話でそれが発覚し、その友達がとんでもなく喜んでくれたのだ。それでなんとなく、「好きなもの」について話すのもいいな、と思うようになっていった。