故に我あり書店

(この原稿は、ちくまでの連載エッセイの冒頭に、新たに後半部分を書き足したものです)
   

この前、対談をしている時に、苦手な本とか良さがわからない本が、ネットとかSNSとかで好意的に紹介されていたら、本当は違うのに、どうしても世の中全てがそれを勧めているみたいな感覚になって、つらい気持ちになるんじゃないか、っていう話をしていて(私の本が苦手な人は確実にいるっていう話の流れからです)、ああ、やっぱり本屋さんならその横に「私はこっちの方がいい気がする!」って思える本が並んでいるからいいよね、本屋さんはずっとあってほしいな、と思っていた。リコメンドはとても参考になるけれど、リコメンドだけで他が見えない空間と、他の本とともにポップでリコメンドがある本屋さんはやっぱりちょっと違っている。私の本が苦手な人はいて当たり前だし、むしろ、苦手な本があるっていうことは、自然なことだと思っている。芸術や文化の前に立つとき、その人はこれまでの人生全てを抱えて立っていて、だからどうしても嫌なものがあることをおかしいことだとは思わない。だからこそ心から惹かれるものもあるだろうし、それを愛する時間こそが大切なんだと思っている。その人が、その人だからこそ好きになる本。そういう本に出会う機会が作れるから、本屋さんはいいなと思う。

手に取れることの意味というのはある、取れるところにあるもの、というのはそれだけで価値があって、私はそのことを特別に感じる。それは、その本の前にいる「自分」を無視しないからだろう。パソコンやスマホで情報を見るとき、私は私の体を見失うし、情報はどこまでも染み込んでくる。自分というものが無視できるほどにそれらを巨大なものに感じてしまう。でも、本という形で本屋さんにあれば、どんな世界中が讃えている作品も、有名な人の人生を変えた作品も、視点を変えれば「たかが本」だと思えるはずだ。誰が勧めようが人気があろうが、本は本以下にも以上にもならない。自分が好きだったり大切に思う本と、同じ大きさであって、存在感であって、なにより、読む人がいなければ、開かなければ、その本が本当の意味で存在することはないのだということを肌で思い知る。書店で、その本の前に立つまで、私の世界の中ではその本は存在していなかった、という確かさがある。「私」が搔き消えることがなく、いつも私を中心にして本があるのだということが証明され続けている。

本を前にしたとき、作品を前にしたとき、自分は、それまでの人生、時間、思考全てを抱えて、作品と向き合っていて、だからその作品と私の世界の中では、私がどう思うかが全てなんだ。どうしても好きになれない作品があったとき、どうしたらいいか、どうしても受け入れられない単語や表現がある作品を、好きになるにはどうしたらいいのか、という話が、冒頭の対談の中であった。好きにならなくていいと思う。そんな必要はない。どんなに世の中で受け入れられている作品も、友達が大切にしている作品も、好きでないならそのままでいい。私は私の作品を好きでない人に、好きになって欲しいとは思わない。その人にとって大切な作品があるはずで、好きな本があるはずで、ただそれをどこまでも大切にしていて欲しいと思う。
書店はいつもあなたは選ぶ側なんだということを教えてくれる。そういう意味で書店はとても面白い。こんなに本はたくさんあるのに、どこまでも自分が選ぶ側なんだ。こんな存在の認め方があるんだな、と思った。私はどんな本を読むかでその人の人柄とかセンスがわかる、みたいな考え方があまり好きではなくて、その人の本質のようなものに深く迫るのも浅く撫でるのも、いいじゃないか、その深度でさえも、読む人がそれぞれ選ぶことだと思うから。ただその人が選ぶ瞬間を待ち、自分だけがどの本に注目するかを決められる、という、その瞬間こそ、私は人の存在を包んでいると感じます。センスも趣味も人柄も、他人が勝手にいうことですね。あなたが、あなたであることをあなただけは疑わずにいる。書店はだからとても、静かなのだと思います。



   
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