インターネット蕁麻疹

 

書くことは孤立することなのだと思っていたのに、いつの間にか孤独なことだ、ということになり、孤独は遠くの誰かと共振し合うように誤解をし、それらは何かを埋めていくように思えて、本当は何も埋めてなどおらず、そのことに気づくことができないと、空気を読むことが書くことであるかのような錯覚に陥る。

孤独とはつながりを求める理由なんかではなくて、世界を拒絶するための理由にしかなりえない、あなたたちのことが嫌いで仕方がない、と言うために必要なものなのだ。正当な理由で他者をすべて否定することはできないし、それができると思い込むなら、そのとき自分はただ暴力を振るいたいだけだと思う。そうではなく、すべてにおいてうんざりする、嫌いで仕方がないと思うその自分を、軌道修正しようとする「まともさ」を殺さなくちゃいけない、そんなのは本当は「まとも」ではない、空気を読めばいいんだろって考えるような軽薄さだ。世界中の人だってどこかでは他者にうんざりしていてわたしのことが理不尽なほど嫌いかもしれない、ということを許さないような「まとも」を信じるなんて馬鹿げている。わたしは、空気を読みたくない、絶対に読みたくないし、嫌われたいとか好かれたいとかそんな発想もしたくない。人の視線が自分の内側にまで存在し得るという考え方がまず自分を不自由にするし、それを許さない空気は無理だ無理。ここ最近、ずっと蕁麻疹が出ている、これが蕁麻疹であることに最近やっと気づいた、自分が何に圧迫されているのか全くわからないが、ここに書くことでまるで今の空気にストレスを受けているようにも見える。

 

zoom飲み会の話を聞いたとき気持ち悪いなと思った、友達がいないことに改めて気づくことが多かった、みんな寂しいというけれど寂しそうに全然見えなかった、寂しいという言葉がコミュニケーションの一部として発生するようになったからだろう、寂しいと言うことに意味があって価値がある時期なんだ、とおもう、ネットを見て、何も書けなくなる瞬間にこそ孤立が現れて、そんなことになるならもう、SNSなんて滅びろよ、と思ったのだった。

絆や繋がりに対する気持ちの悪さは昔からあったし、それは世界における建前であって、建前を語ることが自分自身のためにも必要だ、という人は多くいるし、わたしはそのことまで嫌だったわけではなかった。ただその建前と自己の間にあるものに苦しんでいるのではないかと思って、そこで出る言葉は「寂しい」であったかもしれないが、寂しいは誰かに会いたいという意味ではなかったから。今は全くそんなことはありませんね。会いたくて仕方がない、物理的に不可能になった時そういう意味での寂しさばかりがネットに現れるのだなあと思う。なぜなら発信が解決につながるから、だから発信に必然性がありそれらは優先されていく。発信しても無駄な気持ちや考えは発信されなくなるがそれは不健康なことだと思う。


共有される、共感されるような寂しさや怒りしか、この場所にはもはや存在できなくなってしまったのかな。生活における苦しさや痛みの発露は、誰かに励まされたり共感されることが必須であるように錯覚をする。それは仕方がないことだ、この危機的状況において、助けを求める人の声を、助けたい人が聞き取れるというのは、インターネットの今必要とされている側面なのだと思う。わたしも気づけて良かったと思うことは多々あった、助けたい人はいるし、助けられるのだからインターネットは捨てたものじゃない。ただ、誰も助けたくないような、くだらないとしか思わないような、でも当人にとっては叫ばずにはいられない痛みや苦しみが、本当に身を潜めてしまっていると感じる。他人にとっては大したことのない「今言うべきではない」しんどさや苛立ちが、減るはずもないのに見えなくなっていると感じる。他者が聞いてやりたいと思うか、助けてやりたいと思うか、なんてことがその気持ちが存在していいかを決めるわけもなく、むしろ、その気持ちが垂れ流せるだけで救われることがあるはず。それさえ今許されないとしたら、その人たちは今ずっと「寂しい」のではないか? 「書く」ことより、「書けない」ことの方が今はずっと孤立している。

 

わたしは、理由があって怒らなくてはならないタイミングで怒るのが嫌いだ、それはやらなくてはならないことで、出陣でしかないからだ。わたしがわたしでなくても、怒るはずのことだけれど、わたしの身の上に起こったから、わたしが立ち上がらなければならない、という類のものだからだ。それらは絶対にやらなくてはならないし、やるけど、むかつくしやるけど、でもわたしはもっと理不尽で矮小な人間だったはずだし、そこに火薬ぶちこんで爆撃させなきゃ生きてないだろ?と思うのに、怒らなければならないことが多すぎて時間が足りなくなる。そういうつらさに消耗される。インターネットを見ていると、そうやって周りの人は追われていると感じる、周囲がとてつもないスピードで正しく誠実になっていく、そうせざるをえない状況に追い詰められている。そんなふうに思うのはわたしだけかもしれない、他の人は理不尽なことなんて身勝手なことなんて、頭に過ぎりもしないのかもしれないが、インターネットが、そして、何よりそうならざるを得ない状況が、個人が個人として存在することを妨げていると今は思う。

どうしようもなく誰のことも嫌いだと思う時間が増えたし、それは新たに生まれた感情ではなくて、前からあったけど行き場がなくなってきているということだろう。こういう時に人間性が出るよね、という言葉をテレビで聞いたけれど、自分の矮小な人間性が、どこにも抜けていかなくて、ひたすら手元に溢れ続けることに耐えられなくなる人はきっといる。インターネット、正常に戻ってくれ、正常にくだらなさを垂れ流してくれ、などと願うのもまた違うが、今が「まとも」なわけではない、ということは絶対に、絶対に言いたいと思った。