不自然による不自然のための不自然なコミュニケーション

人に気を使ったり使われたり、顔色を見たり見られたりすることが苦手で、誰に嫌われてもいいし好かれてもそれにそこまで価値を感じていないという態度を他人にいくらでも見せられる人は、自分を貫いてかっこいいなと思うが、誰に嫌われてもいいなら私なら誰にも会わない、と思ってしまうのだった。

無愛想だが失礼でなくて、自然でいつも本心でものを語っていると感じる人間にすごく憧れる。でも私が全て正直になると、家から出ない、人と会わない、電話をとらない、ご飯を食べる、寝る、ゲームする、昼夜逆転、原稿する、で終わる。人とのコミュニケーションは、それ自体がもはや私にとっては不自然だ。人が嫌いとかではないんだけど、人の存在が日常とか生活と地続きというよりはすこし着飾ったものに感じられる。暮らしというよりお出かけであり、特別であり、人と話すのはだから疲れるし、気を使うし、正直や無愛想とかでなく、マナーや親切のレイヤーが自然となっていく。どうしてもそうなってしまう。

そういう自分をダサいと思っていたが、しかし他人に素直な自分を見せること自体が私の「自然」には入っていなくて、他人がいる時点で異空間なのだ、ここで異空間にうまく合わせることでしか動けないのが自分の正直なところ、なのだろう。だから精一杯、「っぽく」振る舞うし、かっこいい自然な人間として生きることはもう諦めている。俺の自然がそうさせてくれない。それだけだ。
‪だから友達はできない。もうほんとできない。できないことは仕方ないとしか思っていない。失礼がないように、ということだけを守って行動するわたしは、目的がない会話が成立しないし、結局仕事関係の会話だけして終わっている。そこに不満はなくて、それなりに生きてしまっているのですよね……。大学で学んだ最も重要なことは、人は簡単に行方知れずになる、ということだった。人とのつながりがそれまでよりずっと希薄になって、いなくなっても気付かれないし、興味を持たれない、ということがわかった、私はそれが無茶苦茶嬉しくて、嬉しくて嬉しくてたまらなかったんだ。わたしは、誰かが誰かと仲良くしているのを見るのは好きだ。ただ人と仲良くできないこちらが、冷たいだとかかわいそうだとか言われたときだけ「黙れ、仲良しチームが!!」と思う。私はみんなに詩を書けなんて言わないのに、どうしてみんなは人と仲良くしろ、というのか。私は人と仲良くできない。上っ面で会話をするが、もっと正直に話してくださいよと言われたら、荷物をまとめて家に帰ってゲームをする。それこそが私の正直な姿なんですよ、そういうことなんですよ!!!わかってほしいような、別にわからんでもいいような。それを心の壁だと言われると困る、こんなにも心を開いて、閉じこもっているというのに。家が好き、家だけが好き、それ以外は知らん、家に世界を入れてくれたらまだ、世界のことちゃんと見るよ。