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悪いことぐらい自分で考えろよ。

差別や偏見の何が気持ち悪いって、自分で考えてないっていうことだと思う。自分の口で、態度で、その悪意を表明しているのに、自分で考えていない、他人もみんなそう思っているっていう後ろ盾があるつもりで、そこから思考を引用したつもりで省エネしている。それはたぶん差別とか偏見とかだけじゃないのかもしれない、主語が大きすぎる価値観(「○○はみんなそう」みたいな)というのは、たいてい一人の人間の経験と思考じゃ普通は裏打ちできないはずで、そういうのを語るときどうしても世界から思考を引用してしまう。世界を代表しているつもりだから、正義のつもりにもなれるのかもしれない。でも、そんな悪意はその人自身の人格も人生もなにも入っていないからっぽのプラスチックケースみたいで、たとえば友達がそういうこと言ったとしたら急に友達の存在感が目の前から消えてしまう。最低なことぐらい考える日もあるだろうよ、善人になれなんて、人間やってたらどうしても言えない。でも、悪いことぐらい自分で考えろよ、とはどうしても思ってしまう。
最低なやつがいて、そいつに攻撃されたら、攻撃し返せばいいだけで、でもそこにいない、曖昧な「他人」とかいう存在の代表として当人が振舞っている場合、殴ったって怒ったって届かない。当人は空っぽなままで、何を言われても自分への言葉だと思わない。そういうのって気持ち悪くないですか、単純に、一人の人間が、一人の人間としてではなくて、自称「世界の代表」として振る舞うって、コミュニケーションのありかたとして気持ち悪くないですか。だってきみが私の目の前にいる意味がないじゃん。人間として向き合っているのに「いや私は世界なんで」なんて言われたらなにいってんだこいつ、と思う。私が今見ているきみという存在を、私が友達だと思っているきみという存在を、きみが、放棄するなよ、無責任だな。どうして一対一になろうとしないんだ。どうして生きていて、他人と言葉を交わせるのに、自分で考えて自分で決めたことだけ口にできないんだ。生きるっていうのはそういうことじゃなかったのか。正しさだとか道徳的な話、そういうものを自分一人で突き詰めるのが難しい、とかいうならせめて、悪いことぐらいは自分で考えろよと思う。

人間悪いことぐらい考えるでしょう、姉と弟で勉強とか運動とか、出来不出来に差があれば、互いに互いを疎ましく思ったり、友達が自分よりずっと運がいいように見えたら、同僚ばかりが才能に恵まれていたら、嫉妬してしまったり、するし、そういうのをたれながして、「私はちっさい人間ですよ」「そうだね〜」って友達なら一緒にケーキ食べますよ。私はそういう悪意が好き。その人の人格みたいなものが善意の何倍もそこにあるって思っている。でも、自分で考えたわけでもない悪いこと、口にされても、私は誰と会話しているんだろう、と思ってしまう。せっかくの時間、せっかくの場所、せっかく向き合っているのにそれかよ、って思ってしまう。差別とか偏見とかには、他にも嫌だなって思うところがあるけど、友達がそういうこと言ってしまった時は、そんな気持ち悪さについてまず考えるんだ。そんなことよりきみの職場のムカつく先輩について好きなだけ愚痴ってみたらどうだろう。毎日、深夜に布団の中でひとりぐるぐる考えている言い訳と悪口と自己肯定について。そういうのが聞きたいなって、私は思う。



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