芸術は勘。

芸術は勘。そう言うと、表現のことをとても軽く考えていると思われるかもしれないけれど(まあじっさいそうなのかもしれない)、命をかけてもおらず、絶望をそそいでもいないのに、小さなころから私が毎日文章を書きつづけてこれた理由は、すきだからというだけだった。いのちをかけてもいないし絶望もしていないからこそ、すきというきもちはたぶん強い。そこに動機も期待もないからだ。
   
どこかに価値が生まれたら、それはすばらしいことかもしれない。意味があるかもしれない。根拠があったり動機があったり、期待があったり下心があったりしたら、その行動は「確かなもの」になるかもしれないし、「なんとなく」という行動は、それよりも下に見られるかもしれない。でもさ、人間の根拠ある行動が、宇宙を動かすことなんてないし、観測できるかという点でみればどちらだって不確かなのだ。結局、死んだのか生きたのか、ぐらいしか、物質的には観測できない。人間のそれ以外すべての行動思考は、不確かであり、「無視できる誤差」であるはずなのだ。それなのに、どちらが確かなのかなんて言い合うのはばかばかしくないか?っていうかさ、不確かだからいいんじゃん、不確かだから自由だし、無に帰するぐらいだから、なんだってできるようになってんだろ。