I like it.

好きなものを作るというのは、自分の中に凡庸な部分を作るということだと思う。言い換えれば、他者と共有できる何かを持つということ。好きなものを見つけるというのは、自己表現のもっとも最初期なものだとも思う。世界と自分の共通項を見つけて、「私はこれが好きです」という。それは一番簡単な自己紹介の仕方だ。もちろんその反面で、好きなもの羅列して語れるような人間は結局いてもいなくても世界に関係ないってこと、というどうしようもない感覚もあるわけだけれど。でも、とにかく孤独である人にとって、世界との関わり方がわからない人にとって、好きなものを見つける、というのは孤独や孤立感からの突破口だと思う。
赤ちゃんはさいしょ、何を考えているんだかさっぱりわからない精神の塊で、でも、食べ物を覚え、たとえばトマトが好きだとか、きゅうりがきらい、だとか、そういう好き嫌いが現れた瞬間、その子は「私はトマトが好きです」「トマトが好きな子です」という声を手に入れる。これってとても素晴らしいことだ。まだまだ言葉はわからないけれど、でも、この子だけの好き嫌いがあり、それがこの子の周りの人にもわかるということ。「きみはトマトが好きなんだね」と理解されること。認識されること。好きなものを見つけることの尊さは、ここに凝縮されていると思う。自己主張をするということは、突き詰めれば絵を描くことや言葉を紡ぐことに至るわけだけれど、きっとこれもすべて、「好きなものを見つける」という行為を細分化したにすぎない。ただひたすらそれを、丁寧に、細かくやっていく。それだけだと思うし、だからこそ作られたものは美しいのかもしれない。
言葉よりももっと原始的なものだ。「好きなもの」でも、たぶんこれを交換するようにして、私たちは会話をしているにすぎない。これがいいよね、といえば、その人にも「これ」がわかるし、この人は「これ」が好きな人なんだな、とその人のことも一部分理解できる。それを飛び越えたものを交換することはとても難しい。誰も共有できない部分を伝えていくことだから。(そしてものづくりはその領域にはみ出ていくための行為だと思っている。)でも、これはそれ以前の話。100%理解できないものは永遠に孤立する。何かを作ったりするとき、私はどこかで共有する部分がないといけないと思っていて、それこそ、情景とかなんでもいいんだけど。で、そういう理解される部分を作るのは、その人の中にある凡庸さ。そしてそれはたぶん、「好きなもの」でできている。