しゃべり言葉と書き言葉の、きみのブレンド何対何

私が書く場合、言葉のスピード感は結局つねに声として出しているかが肝じゃないかなと思うときがあって、「彼女は」とか「彼は」という言葉(恋人を指す言葉ではなく、SheとHeね)は書き文字としてはよくつかうしよく見るし、だからこそ何度も使っちゃうけど、日常会話で声に出してそれを言うことは滅多にないし、そのことを忘れて使いまくってるとなんだかあとあと書いてた時に想定していたより動きの鈍い文章だな、って思ったりする。あと、そういう言葉を声に出して使っている人を見ると「多分本が好きなんだな」「もしくはなにか日常的に書く人だな」って思う。
   
読書を日常的にしたり、文章を見られる前提で書き続けている人というのは話し言葉にもそのくせがちょっと出がちです。たとえば熟語を使用する量が多い。基本的に漢字で意味をぎゅっと押し込めている言葉って、あんまり人と声で話す時にはつかわないというか、話している時だれしも他人にちゃんと理解されたいとおもっているため、どんどん意味を分解して言葉を選んでいくのが本能ですので、「苦悶」は「もだえる」とかそういうふうに言葉が砕かれていくですよ。考えることもなく、そりゃもう反射的に。そのほうが聞いているほうも、単純に音として聞き取りやすいからね。熟語はなんというか、使い慣れていったものならともかく、基本は漢字がならんでいて、そこで意味をもたらす言葉なので、音単体だと、どうしても直接的でないというか、「クモン」って、どこの塾だよ?どこのインドのスパイスだよ?ってかんじじゃないですか。いやもちろん私だってわかりますけど、「もだえる」っていわれるよりも全然、理解の速度が違うな、と思うのです。そりゃコンマの話だと思いますけど、でも違うし、みんな友達とかの会話で、そういうのは反射的に判断してやっていると思うんです。で、本を読む人、書く人、というのは、そうした漢字とか文字で言葉をイメージすることが非常に身近にあるので、その反応速度が速く、だんだんそこらへんの判断をしなくなるのではないかというのが私のこれまでの印象で、編集さんとかじゃなくても、このひとなんか熟語とか頻出させるなあ、と思ってたら文学部出身でした、とかよくあります。このへんは多分本人たちは無自覚なんでしょうね。私は本をあまり読まない子供だったので、気になるってだけかもしれませんが。そして、そういう癖を見つけるのは人間に蓄積されたものがちょっと見えるようなかんじがして、個人的にはとても好きです。
   
私は詩を書いていて、自分で朗読するというのはしないのですが、そして声に出してよまれるということにむいていないとすらおもっていたのですが、最近は「声に出すとすごくたのしい」と言われることも増えて、もしかしたら私の言語の感覚が、「読む」と「書く」に氾濫していないからかもしれない、なんて思いました。(ほら、「氾濫」とか会話ではつかわないですよね。「え? 反乱?」っていわれたりしてめんどくさいのいう前からわかりますからね。)使う言葉がわかりやすいとも非常に言われるし、もちろん語彙力が足りないとかもあるとは思いますが、本質的に、ものを書く人間の割に読書量が少なく、「言葉とはしゃべり言葉である」というのが、体に染み込んでいるというのもあるのかと思う昨今です。(それがいいか悪いかは考えたくありませんえん)