さみしさの稲穂

この時期は暑さはましになったというのに、あるきまわるとどぼどぼ汗が出てきて、冷たい缶コーヒーにでもなったような気がする。食べ物の話をいくらでもしたい日と、ほんとうにそういうのはどうでもいいです、という気持ちになる時があって、今日は後者。食事への欲求がほとんどゼロになっている。
人間が食べることに完全に興味を失うっていうことがこれから先は起こり得るんだろうか。私たちは基本的に高カロリーなものをおいしいとおもうし、それは要するにオールタイム飢餓状態だった原始時代とかの名残だと思うんだけれど、しかし今は高カロリーの方が体に悪い。状況が欲望と矛盾し始めていて、だからこそそれに順応して未来人は低カロリーを愛するように、つまりハンバーガーもラーメンも焼肉もケーキもパフェもまずいと思うのかもしれないな。もしくはただ高カロリーへの偏愛で短命になっていくんだろうか。こんなに肥満が問題になっているのにやっぱり高カロリーを美味しいと思ってしまう現代。昔に備わった欲求だけは永遠に、その種族とともにありつづけるのかもしれない。そしてだとしたら豊かになればなるほど、欲望に殺されていくのかな。なんだろうなこの話。そっちのほうがきになるなあ。
    
とにかくひとりぼっちだった、友人だとか大人だとかいう他者が周りにいて、それによって感じるひとりぼっちではなくて、本当の意味で、宇宙に放り出された有機体のようにひとりぼっちだったのだ、という話は、谷川俊太郎さんの「20億光年の孤独」やその同時期の作品について、谷川さんと山田馨さんが共著『ぼくはこうやって詩を書いてきた』で語っていたことで、読んでいて「セカイ系とよばれる孤独と、それはよく似ているな」なんてことを思った。というか「セカイ系」なんてことばは後からやってきただけで、私たちは具体的な人間関係で自分を捉えるよりも先に、もっと曖昧な「他」というもの「宇宙」というものに対して孤独や焦りをかんじてきた。小さな頃目を閉じて、世界中が急速に変化して通り過ぎるのを想像すると必ずぞっとして、それがなぜか「怖いもの見たさ」みたいになり癖になったのを思い出す。自分が自分から引き剥がされて、まったくどこにもいないような気がする。それは私には孤独というより、「解放」ってかんじだったのだけれど。で、たぶんそう思えたのは私がひどく幼かったからだろう。
   
4歳ぐらい。たぶん、自意識もはっきりしない。自分を愛するのはまだ先だった。世界の方が自分よりずっと具体的で、自我はドーナツの穴みたいなものだった。そのことにまだ不満がなかった。でも年がたてば次第に自己愛がそだって、世界との対立構造が生まれ、世界に対する孤独というのが生じるし、そこから世界の具体的な要素(クラスメイトや先生)が自分と関わりを持ち、もっと具体的な孤独へと発展していく。冒頭部とのつじつまあわせではないけれど原始時代の話を持ち出してみれば、きっと当時は当時で大地や海や風が自分たちを無視して蠢いていることへの「孤独」があっただろうなと想像ができる。自分を起点にして物事が動いていてほしい、という欲望はずっと昔からあったってことだろうか。でもそれは、自分の肉体が世界の観測者として存在する限りは逃れられないよね。自分の目の高さでしか、世界を見ることはできないし。そして、たぶん「さみしさ」という感情は生まれたその瞬間から、体のどこかにそっと紛れ込んでいるのだろうと思う。何かが起きて新たに生じるのではなくて、ただずっとそこにはあるんだと思う。わけもなくさみしい、という感覚が、わがままだとはどうしても思えず、弱さだとも思えず、さみしいと思った時、それはただ、体のどこかに最初から群生していた稲穂みたいなさみしさが、ちょっとしたことで、そよかぜで、揺れてしまったというだけなんじゃないかなあ。ぼんやり。