全体的な引用はいいんだろうか。確認しようがない現在がとても残念に思います。
詩をかきはじめた当初わたしは「小牛と朝を」という詩を書きました。
初心者であったので恥ずかしいのですがここに引用しておきます。

小牛と朝を    最果タヒ
    
    
とおくの指先で悲しんでいる
小牛に
かなしまなくてもいいよ
なんて言いたい
わたしの死を、きみが悲しむ必要はないよ
    

どうしても牛乳を受けつけないのは
夜のすこしあとに
わたしがいた
くろい場所を思い出すから
はいあがってきたの
笑い話には まだなってなかった
    
小牛を
ちょっとだけ
焼いたりする
     

わたしはカルピスを飲む
牛乳のつもりで飲んでも
驚かないんだ、こればっかりは
     
昨日も死んだのに
今日も死ぬ
眠る前はそうやって
あきらめる
そうするととおくの小牛が泣くから
わたしはまた
はいあがる
       

この詩をあをの過程さんが批評してくれた機会があり、
久しぶりに読み返す機会があったのですがその批評のものすごさに感動してしまいました。
ので、ここに引用(もしくは保存)させていただきます。

朝の崖から/いつしか橋を架けていた
     
 眠る前に、死んでしまうような恐怖を感じる人が、この世界に一体どれだけいるのだろう。少なくとも私は、その一人だった。というか、眠りに落ちていく時、私は実際に、自分が音も光もない世界にゆっくりゆっくり落ち込んでいくのを感じていた。視界が狭くなり、音が段々遠のいていき、皮膚の感覚が完全に失われていって、精神がその静寂に耐え切れなくなって途絶えてしまう、その刹那、私は母の胎内の赤っぽい光をわずかに感じ取る。そして次の朝、私は誰かわからない<私>として、また自分の死後を生きるのだった。
 朝。その、沈黙した世界。本当はここにいるはずの<誰か>の不在が、響いている。その<誰か>を、昨日の自分として時間軸上に位置づけるのは簡単だ。しかし、この不在の<誰か>は、そのような一日毎の断続的な<私>を越えて、むしろ半永久的な不在として、壁のように存在しつづけているように思える。なぜなら、私が何度死んで何度朝に生き返ろうとも、その不在は不在として変わらずそこにありつづけるからだ。図の背後に地があるように、島の背後に変わらぬ海があるように、光の背後に底のない闇があるように、<私>の背後には生まれてこなかった(あるいは、ここではないどこかへ生れ落ちた)双子がいるのである。いつまでも、変わることのないまま。
 たとえばここで、その不在の<誰か>が小牛であったとしても、何の不思議はないだろう。落ちていった私にはわかる。死の世界は、誕生以前の世界と同じだからだ。そこには「くろい場所」だけがあり、我々は人でもなければ牛でもない。耳鳴りがするくらいに静かな、混沌だけがあって、そこから光の下に生まれ落ちていく小道の途中で、あるものは<ここ>で人になり、あるものは<とおく>で牛になるのだ。
 この詩においては、「とおくの指先」という言葉が、めっぽう効いている。「指先」という細い場所の不安定さと、指差されることでしか存在できないあり方が、「小牛」の遠い双子としての存在の仕方を、さらに言えば、「小牛」と「わたし」との危うくも決して途切れない関係を、語りかけるのだ。
 そして、牛乳の白さ。朝、牛乳をじっくり覗き込んだ人ならきっとわかるだろう。あれは、まるで真っ白な壁のようであり、そのくせ、かすかに静かな流れを作っている。私を反射することを、完全に拒む物質の鎮座。じっくり眺めれば眺めるほど、あれを体内に入れてしまうことがあまりにも恐ろしいことのように思えてくる。この詩では、そんな牛乳の物質性を、「朝」と結びつけて把握することに成功している。ここで「牛乳」は、それを飲む存在である「小牛」と「わたし」とが、かつて一緒に「くろい場所」にいたことを、すなわち「小牛」と「わたし」とがかつてひとつの闇の中で繋がっていたことを、想起させる。そこから「はいあがってきた」ことが「笑い話には まだなってなかった」という中途半端な時間帯だからこそ、すなわちそれが「朝」だからこそ、「わたし」は自分に生命をくれるはずの白い「牛乳」を受け付けず、そこに死後の「くろい場所」ばかりを見出してしまうのだ。
 これは、割り切った生に対する拒否反応であると同時に、かつての死に対する拒絶感でもあるのだろう。この生と死の両方に対して、話者は自分なりの決着をつけることなく、「カルピス」に逃げる。この姿は、もしかしたら、我々若い世代の様々なものに対するごまかしの姿勢にも通じてくるのかもしれない。朝の独特の雰囲気が、その倦怠感をうまく引き立てているようにも思った。
 それにしても、「小牛」は本当は、何を泣いているのだろう。「かなしまなくてもいいよ」との言葉は、一体誰に向けられたものなのだろう。私は思う。かなしんでいるのは「わたし」であり、あるいは朝全体であって、そのかなしみとはすなわち、生きることへの懸命な懸命な愛の別名なのではないか、と。小牛がかなしんでくれていると信じながら、聞こえなかったはずの耳でその泣き声を何度も聞き取って、毎朝はいあがってくる「わたし」。彼女が見る朝の光景を、私は冷えた牛乳の静かさで、愛しつづけていたいと思う。


あをの過程


あをの過程さんは空走距離という私の詩のタイトル提供者でもあります。
一人の人間として、つよくそれでいて細い、まっすぐの視線を持っており、
球形である地球が、かれの視点に寄り添うがためにまっすぐに伸びていく、
そんなふうに思える書き手です。