羊を追いかけること22年

私が小学校に入ったころにセーラームーンがはじまったんだけれど、中学校にいったらああいう髪型のひとがいるんだなー、赤色とか水色の髪の毛の人がいるんだなー、って思ってた。(赤色については正しかった。)このまえエヴァが9歳のとき放送されたけどよくわからなすぎてお昼寝タイムになってたと書いた気がするのだけれど、あのとき「14才の感情の機微とか9歳じゃわかんないよね」って書いたような気もしている。年齢一桁のころの十代なんて、楽しすぎてキャッキャしているイメージで、純粋と現実のあいだ、みたいな青春時代は一切想像しなかった。もしかしたら恋愛要素の薄い戦う少女マンガしか少女マンガは読まなかったからかもしれない。悩みとかさ、そんな重要なものだと思ってなかったよね。夕焼けがしみこんできた公園や、伸びた時計台の影や、ああいったものにしんみりしないよ9歳は。震災のときにショックのあまり騒いでいる子供たちが(子供は混乱を起こすと大声で話したり騒いだりして落ち着こうとする)、理解のない大人に叱責されてさらに傷ついたとしても、それは傷のまま心に残って悩んだりもしないんじゃないかと思う。全部の感情が復習も予習もされないままできごととして残っていくよね。だからこそ今思い出すと生々しかったり、すごくきらびやかに思えたりする。14歳とかそのへんの悩みが純粋だとか言い出すと、この9歳はどうなるの?っておもう。バカなの?考えなしなの?と思うよね。私はとくにぼけっとした子供だったからあのころは物心がまだついてなかったってことにしてるんだけども。
それでさ、そういう子供時代に見たものってものすごい美化されるじゃないですか、ドラゴンボールとかセーラームーンとか今で言うとワンピースとか。あれらの作品は当然美化されなくてもものすごいと思うんですが、それでも「俺の昔に比べたら今のマンガにはワクワクが足りない」とか「私の見てたころのアニメってもっとまっすぐだったと思うの」とかね、そういう言葉には少なからず彼らの「思い出補正」があるはずで。子供時代に感銘を受けたものと言うのは、やはりその感銘が生のまま、しかし冷凍されたように変化なく保存されていて、だからこそその作品を大人になっても否定できない。「あれは駄作だよね」なんて当時の自分を否定して言う人なんてほとんどいないし、たとえ「これにワクワクしてたなんて…子供だったな…」とは思うことがあっても、それでも当時の自分が楽しんだことに対してまで否定的になる人はいないと思う。「子供はこういうの好きだよなー」ぐらいで終わると思うんですね。

鳥山明「次はいったいどうなるんだろうか、って、どんどんページをめくっていって、読み終わったら、ワッハッハって、元気に外へ遊びに飛び出して行けるような作品をね、ぼくたちも作ってみたいなあと考えたんです」

だからこそこうした絶対的な愛情に守られる「子供たちの傑作」に対して、私は憧れと嫉妬を覚えていて、今でもわかりやすくて楽しくてそれでいいじゃない!という子供趣味が強く残ってしまっているんだと思う。子供をワクワクさせ夢を見せるものを目の前にしたら、自分の創作がどこまでも無駄な気がしてくるんだよね。あれほど、尊い仕事が他にあるだろうか。
何も悩みだとかがなかったころの子供時代は、感情と言うものが思考に一切関与しない。そのまま保存された感情は、論理じゃ整理も否定も肯定もできないから、年を経ても、辛い経験をしても、けっして変化はしないし、いつまでも感動は感動のままだ。私は正直、人が他人を認める、という行為はこの時期にしかできないのではないかと思っている。もちろん大人になってからも論理的に「この人はすごい」と思ったり、シンパシーを感じて愛情として「この人が好きだ」と思うのかもしれない。けれどその感情はいつか否定されたり「あれはただの勘違いだった」と言ったり、つまり幻滅が待っている。もしかしたら永遠のものがあるのかもしれない、しかし幻滅が待っていると言う不安はきっと残るだろう。感情を感情のまま保存することができない人間にとってそれはしかたのないことだ。ただ、そうではなかった子供時代のことについて懐かしく思うし、そういった時期のヒトに愛されることがまるで海みたいにたっぷりの愛情に飛び込むような、そういう安心感を抱く。誰かの幼少期の思い出になるってのはそれぐらいすばらしいことだと思うな。子供たちの初恋の相手になる保母さんとかね。