お前が見るもの、みなお前。

‪これは感情の一種だと思うんだけれど、「何かを発したい」「しかし何もここには無い気がする」という衝動に襲われることがあって、多分大きなトンネルか筒が自分自身で、風がそこを通り抜けることで、声でも歌でも無い音が発せられるような感じ。そういう時のもどかしさは、そのもどかしさそのものをアウトプットできてこそ、やっと散って消えるものなのであり、だとしたらアウトプットができて時点でもどかしさは変わってしまうのでは?とも思う。(もちろん物を作るということや人に自分を見せることを日常的にしている人なら変わってくるのだろうけれど。)そういうときに手元にスマホがあり、自分の見ているもの、自分にインプットされていくものを、そのまま写真に撮って、アウトプットできるというのは意味があるのだろう。インスタグラムを見ているとそんなことを思う。‬
  
わたしはドラエフォンがでたころが小学生で、PHSを中学の頃に持ち、ソフトバンクがボーダフォンだったころが高校時代で(今でもわたしの尊敬する友達のメアドはボーダフォン、感動しちゃう)20代になってからスマホが現れた。ガラケーのころの写メはほとんど使わなかった。印刷してもよくないし、やっぱり写ルンですかデジカメを使っていた気がする。でもそれでもやっぱり写真ってあんまり価値がなくて、「撮りたい」と思うその時の衝動のためにシャッターを押すから、見直したり、現像したりなかなかしなかった。わたしの家には現像をしないまま十五年が経つ写ルンですが5つあります(英訳せよ問題のような日本語だな)。撮影するという行為はやっぱり自分のものではなかった。テレビとか世界にあるポスターとかが特別で、自分はその真似事をしてるって感じだ。撮影したものに価値はなかったし、なんか無性に腹が立ったな。自分の指とか入ってるともうグロッキー。たぶん、これはカメラの性能とかだけでなく、生活とレンズがどれぐらい近かったか、気軽だったかが関係している。あのころのカメラは手足ではなかったな。自分の手足にはなってなかった。
しかし自分に入ってくる情報をそのままでアウトプットできることなんてそうないのだ。カメラもそうだし録音機器もそうだけど、聴覚や視覚がそのまま形になるのは異様に気持ちいい。それに、クオリティが上がれば上がるほど、自分のことすらも表現できた感覚になるのはなんなんだ?たぶん、今と昔の違いはそこにあるんだろうな。そこで見たまま、そこで聞いたまま、記録できた場合、そこにいた自分の感覚とか、自分というフィルターとかはほとんどゼロになる。しかし一方で、自分の中に溜まっていた、無意味だが重くてめんどくさくてどろどろしたものが、ざばーとながされていった感覚があるんだ。あれが爽快感。たぶん爽快感。たぶん見えていたものが記録として残ることでそこで動いていた自分のひとみ、感情を、いつでも辿れるようになったことが大きい。そういえば十代の頃は、頭の無意味でランダムな思考回路をそのまんまで記録していくのが書くことだと思っていたなあ。読み直したときにあのころの心臓の音とか思い出せたらいいなあって。