媒体と目的による表現のジャンル分け

詳しくはかけない(というかかきたくない)のだけれど、私は詩と小説以外にもいろいろ表現媒体に手を出していて、でも最終的にやりたくなるのが文章であることにいつも恐ろしい感覚を覚える。何か作っていると、あああれの続きが書きたいなあとなる。文字を書くのが手にしみついてしまっている私にとっては、たぶんそれが原点なんだろう。
映像が頭にはじめに浮かぶ人が、言葉や音楽にそれをアウトプットするのと、文章が頭にはじめに浮かぶ人とではやっぱり違う。それぞれがそれぞれにとっての原点があって、そこが基礎になってすべてが生まれていくんだと思うから、その形に近いものにやはり最終的には帰っていくんだと思った。映像が原点の人は映像に、言葉が原点の人は言葉に。これは別にたいしたことではなくて、日本の水が合う、とかそういった簡単なことなんだろう。
でも最近は言葉についてもいろいろまったく違う目的の表現媒体をやっていて、それが「詩や小説」とどう違うのか、自由さ、とか目的、意味、いろいろ考えてみると、映像や絵画などよりもずっと遠いところに、同じ文章でありながらあるんだなと実感する。ずっと難しい。エンターテイメントというものについてはブログでいくらか実践していて、それはまだ遠いとは思わない。楽しませる、時間を無駄にさせないという感覚は、別に表現にとってなんの束縛も無いと思うから。(表現自体が本人にとって楽しいものであるかぎり、発露するものはおもしろくあるはずだから。)ただ、そこでさまざまな目的、意味が指定され、束縛が起きると一変する。芸術というのはそんなものから開放され、なんだって言い訳ができる(それで本人がいいなら)ものであるけれど、そうしたことが不可能なジャンルであるなら、翼をもがれたみたいに一気に地に落ちると思う。それは媒体自体が違うことよりもずっと重いことであり、慣れでもどうこうできることじゃないな、と思った。
私はある媒体でものすごい人は、他の媒体でもすごいものを残せる、という状況を何度も目にしてきて、ああ表現に境界はないな、ジャンルなんて鑑賞者だけのものなんだな恐ろしい、と思っていたし、ものすごいわけではないけれど自分も媒体の違いを気にせずに物を作ってきたつもりだった。けれど、本当にあった境界はなにも媒体の種類にではなく、その目的にあったんだと思う。商業的、もしくは汎用性、まあいろいろあるけれど、そうした付加要素が強制されたとき、表現は姿を変えるんだろう。そしてその差を乗り越えるのは容易ではないのだろう。人がたくさんいる理由がよくわかった、なんてね。
   
ちなみに、束縛や強制があること自体が悪いとは思わない。つまりそれは、目的を達成するための道しるべでもあるわけだから、目的が自らのものと一致するのであれば、その束縛に従うことで、すこし道を進めるわけだ。悪いどころかいいことだろう。重要なのは自分にとって合うのが「自由」なのか「束縛」なのか、そして「束縛」であるのならばどういう「束縛」であるのか、「自由」であるのならばどういう「自由」であるのか、それをきちんと見つけ出すことだと思う。私はそれが自分の「居心地のよさ」で決まると思っている。やっぱり直感だろうな、と。難しいことだ。