みんなのコミュニケーション依存

きれいなイメージの読みさわりのよいいわゆる「詩人らしい」日記も、やろうとおもえばやれるけれど、だいたい、きれいな言葉をあやつるのが詩人、というのはかなり偏った解釈なのですよね。絵画だってなんだって、うつくしいとかそれどころじゃないだろと言いたくなるぐらい、見ていたら動悸が起きてしまうような名作ってあるでしょう。詩だって同じなのです。美麗な情景が追える詩というのは詩のひとつのジャンルではありますが、それも含めて、ただきれいな喩えでキャッキャウフフしていると思ったら大間違いなのです。
これは又聞きなので本当にご本人が言ったのかはしりませんけれど、以前糸井さんが、ツイッターについて物を作る人はやらないほうがいい、というようなことを発言していたらしく、わたしもね、それはすごく共感しています。だって物を作る人は生活のどこから創作につながっていくかわからないんです。しんみりとなんとなく書いた詩のかけらのようなツイッターのつぶやきが起爆剤になって、作品ができてしまったりすることもあり、思いついてすぐに投稿してしまったものが、あとあと発展してしまったりするんですね。即投稿、というシステムはさらなる発想を誘発するものの、一方で創作には「気付かない間に切り売りしてしまう」という危険なところもあるのです。だからツイッターでつぶやこうと思ったことも、そうした創作につながっていきそうなものは、だいたい投稿せずに保存します。それは、創作とツイッターを比べて創作を選んでいるということになりますが、それはべつに自分がどちらを大事にしているか、ということではなくて、もともと創作につながっていきそうなつぶやきは、ツイッターより作品の中にあったほうが似合うんですね。似合うメディアを選んでいたらこうなってしまうのです。
詩のかけらのような文章を、ぽつりとつぶやいていけば、私のことを作品から知ってくれた人が、ネットで私を検索しても、幻滅はしないでしょう。(もとからあった幻も大したものではないと思いますが。)しかし、ひらめきにはなんだってそれに合ったメディアというものがあるのです。ひらめいた情景が、詩のほうが似合うときもあれば小説に似合うときもあるし、ふとつぶやきたい言葉が、詩に合うこともあえば、ツイッターに合うこともある。これによってできたそれぞれでの違いが、どちらか一方だけを知っている人にとって、幻滅につながったり、うんざりにつながったりする。けれどそれは砂場から、赤い石と青い石をわけて、それぞれ別々に展示しているようなもので、赤い石を知っている人が、青い石を見て「赤い石じゃない!」とショックをうけてしまうのならば、もう一度赤い石のところに戻っていただけたら、と思う。どっちも理解しろなんて、傲慢なことは言いませんし、そんなこと、望んでもいません。私はべつに私自身をまるっと理解してほしくて作品やツイッターをしているわけではないのです。だからどれか一つでも好いてもらえたなら、それはものすごく嬉しくて、好かれた作品に「よかったねえ」と何度だって言いたい気持ちになるのです。このブログが森山さんを名乗っているのも、最果さんとは別だよ、という意図があったのかもしれませんね。(無意識ですが)
悲しいことに、私とあなたは友達でも家族でもないのだから、私の発するすべてのものを、まるっと理解する義務はあなたにはない。世の中はどうも作者贔屓、というか、作品を読んで好きだったらその作者の別の作品、そして次にその作者の経歴、そしてさらにその作者のブログやツイッター、というふうに、その作者のすべてを知ろう、それがファンだ、ってのが普通に行われているわけだけれど、はじめ作品が好きだったなら、それは「作者のファン」じゃなくて、「作品のファン」であるはずで、作者なんて小さなおまけでしかないはずです。なのに、いつのまにか好きだったはずの作品が、「好きな作者」を理解するためのコミュニケーションツールになってしまっている。こんなのは作品にとってずっとずっと悲しいことです。(もちろん好きなタイプの作品に出会って、さらに同じようなタイプのものが読みたいからと、同じ作者をキーワードにして作品を探すということはあるでしょうが、ここではそれ以上のことを例にしています。)ひとによっては、作者自身が読者とコミュニケーションするために作品を発表する場合もありますが、私は、作者である私のことを理解してほしい、なんていう、作者ありきの理由で作品を発表しているわけではまったくないので、作者というたかが一人の人間より、作品のほうがずうっと重いとおもっています。言ってしまえばコミュニケーションなんてすっかりやめて、だからこそ創作をしているのに、なぜ作品がコミュニケーションツールなんてものにされているのか、その矛盾にとても違和感があるわけです。
   
きっとコミュニケーションが人生の最重要課題である人がたくさんいるんでしょうね。
   
   
   
追記
ツイッターを通じて意見をいただいたので、そこから発展した追記を、記載します。
  
作品は、作者がいなくても単独で価値が見出されるべきです。「作者のコミュニケーションの道具」におさまるのではなく、それ以上のものになりえると思うのです。もちろん、作品を通してではなく、会話で作者が読者と交流をすることは否定していません。

ただし、これらのことは私の個人的な考え方であって、とても少数派だと自覚しています。世の中は人間が好きです、好きすぎて、どんなものをみても、これを作った人はどんな人だろう、と目の前のものよりもその向こうにいる人に対して思いを馳せるところがあります。今回はその「普通」であるはずのことに、私はあえてNOを告げたわけで、そこに違和感が生じるひとは多いと思っています。また、「作品をコミュニケーションの道具にする」という行為を今回は否定して書きましたけれど、それは私みたいな少数派の意見と比較するために否定する形になってしまっただけで、そういうのがあるのは、仕方がないこと・自然なことだとも思っていて、存在自体を否定する気はないです。それぞれがそれぞれであろう、そして、私みたいな人もいるんだよ、というのを、普通側に伝えたくて書いただけにすぎません。
   
   

じゃあ黙って作品だけ書いてろ、って意見は、ずっと黙っていても一度意見表明すれば言われるとわかってました。でもそういうこと言う人は、はじめから作品と作者は切り離して見ている人なんだろうね。言わなくてもわかってるよ、ってことなんだろうけれど、実際はそうじゃないことが大半なんだよね。確かに、なにも言わないほうが合理的かもしれないけれど、こんな人もいるんです、って挙手したくなるのも事実。あと、全体として、現代は作者と作品の距離が年々離れていっている気がしていて、意見を表明することが完全に無意味だとは思ってないところもあります。
現代はある一部で、かなり作品に中心が移ってきている気がして、以前にブログでそんなことを書いたこともあった気がするんだけど、まあとにかくこの時代なら、こういうことを書くのも一つの作品として成立するだろう、価値があるだろうと判断しました。10年前だったら私も黙ってたと思います。ニーズがなければ私も書いたって投稿はしません。