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好きなことで食べていくのは、幸せで、不幸せ。

詩で食べていくことはできない、と、よく言われるけれど、私はそうしたことをあまり考えたことがない(注意:知らない人にお伝えすると、私は詩人です)。谷川俊太郎さんしかそれはできていない、とも言われるけれど、一人でもできている人がいるならそこまで絶望的じゃないんじゃないか、というか全然いいんじゃないかと思う。すべての先駆者がそれに対して諦め、不可能であることが常識のように言われているジャンルは山のようにある。それこそ昨日書いた競技かるたとか。女子サッカーとかも、一時期そんな風に言われていたよね。ほとんどみんな働いて、その前とそのあとに練習するって。人生をかけて、そして才能を磨いて、努力を怠らなかった人たちがどうして、なんて言われるけれど、そういうものは多い。好きになったものがちょっと違っただけで、どこまで才能があっても、どこまで努力をしても、それで食べていく方法が全く見えない、ということはある。教科書には詩が載って、ほとんどのひとが「詩というものがある」ということを知っている状況は、十分すぎる。それにテキストだから、簡単にネットにあげられるのも、拡散だってしやすいのもありがたい。もちろん読まれることがすべての詩にとって重要だと思ったことはないけれど、とにかく詩で食べていくことはできない!みたいな絶望感を抱いたことはなかった。
   
「本」というものが流通に乗り、それを売る専門店がたくさん街にあって、そしてそれを手に取ることが当たり前の文化としてある、ということは、とても幸福なことだと思う。昨日ブログに書いた文章だけど、本当にそう思う。書店さんに挨拶に行った時とか、地元の小さな本屋さんにおいてもらっていた時とか、どうしようもなく思う。本屋さんがあるという幸せ、出版社があるという幸せ、編集者さんがいるという幸せ。ちゃんと業界に渦があって、私が飛び込めば、流れにがんばって乗れば、ちゃんと「連れて」行ってくれるんだということ(もちろん流れに乗るのは大変だけど)。凪の中でボートを漕ぐことは難しい。不可能だと思ったって、しかたがない。例えば、私がもっと大きくて、物質としてなんらかの形がある作品を出していたなら、全国の流通に乗るのにどれほどの時間と努力が必要なのか。そういうものがあるのだということすらほとんどの人は知らないだろう。つまり探しにも来てくれない。ただただ偶然、目に触れる機会も一から作っていかなくてはいけない。詩の棚は書店さんからどんどん消えていくけれど、やっぱりそれでもそういう棚が大型書店にはちゃんとあって、それだけでまだいいと思う。やっぱり言語はどこまでも身近だから、こういう点ではとても、恵まれている。書きたいと思っている間、どこかでなにかを読みたい、と思っている人がいるっていうのは(私の読者では決してないにしても)、他のさまざまなカルチャーに比べればとても恵まれている。存在自体を知られていないものはたくさんあるし、そしてそれでもそれで食べていきたいと思っている人はたくさんいる。いろんなものを好きな人がいる。私が想像もしない、全く知らない世界がたくさんある。好きなことがあって、それだけを信じて、そして自分の才能を信じてきた人なら、ほとんどの人がそれを夢見る。けれど、夢見ただけで、そこから覚悟を決めることだって壮絶に難しいんだろう。好きなもので生きていきたいという気持ちと、好きなもので生きていけないという苦しみの中で、引き裂かれるのに才能の有無など関係なく、ただ自らの才能を信じて、そしてだからこそその世界だけを信じて生きてきた人ほど、痛く痛く、しみる。そして、私はその痛みを、本当の意味では理解できていない。詩は恵まれている。私はだから恵まれているし、そこで引き裂かれている場合ではないんだろう。
   
どうして、好きになるものを選べないんだろうか。人は多分最初、いろんな才能を持っていて、向き不向きがばらばらとあって、いくらでも他に選択肢はあったんだと思う。私だってなにかきっかけが遅れたり、早まったりすれば、絵を描いていたかもしれない。ギターを持っていたかもしれない。けれど、なにかをきっかけにして出会ったものを心から信じてしまった時、人はすべてをそこに懸ける。好きなものを「たった一つの取り柄」にしてしまっているのはその人自身なのだろう。他を全く見てこなかったから、他の選択肢を見失って、寄り道なんてしてこなかったから、他のことを何も知らず不器用になっていく。好きになればなるほど、自分の首を絞めていく、というのはきっと、なんだってそうなんだとおもうし、私は自分がまだまだ器用すぎるとも思う。そして、だからこそ私は、何かを極めた人や、天才と言われる人を、羨ましいとは思わないし、憐れみもしない。ただただそういう人がすごく好きだ。苦しみすらも受け入れるほど、愛せるから、そこまで来たんじゃないか。
   
人が、人を超えた何かになる瞬間だと思う。