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感性で殴り合い

感性をそのままにさらけだしていくことと、感情で相手を説得しようとするのは全然違っている。理屈が主要言語である世界と、感性が主要言語である世界があり、説得というのは理屈の世界だから、そこで感情を持ち出すと何もかもの価値が落ちる。感性をほうりだしていくことは、きっと相手にもそうであることを許すのが大事で、なにかを変えさせようとしたり、同意を得たり、反論したり、というのには向いていない。自分の感性も相手の感性も、そして自分の意図もすべてを侮辱することにしかならない。自分大好き!そういうひとはかわいいけど、それは閉じ込めていたらかわいい、というだけで、影響が及ぶならただうんざりする。感性で殴りあう、というのは私にとってとても大事なことだけれど、それで相手が変わることを期待しての話ではなくて、ぜったいわかってくれないというその前提でなければならない。自分の感情が他者にとって意味をなすわけではなく、だからこそ自由にいられる。説得の材料に、武器にしちゃうひとというのはなんかよくわかんない。自分一人が台風だと、おもっているのね。
    
友達なんかを増やそうとするよりも、理屈をちゃんと交換できる人とよそゆきの会話するほうがたのしい。大人になると友達が増えないって、とにかくいろんな人が言うし、それはそのとおりだけれど、そもそもそんなに欲しくもない。感情を聞いてくれる人がいるというそのことがそれほど重要だとは思わないのは、私が書くという作業をやっているからかもしれないけれど、でもとにかく、友達っていうものに連絡を取るタイミングがわからない。会いたいと思うこともないし、年明けと誕生日に挨拶のメールとかしようかな、とは思うし時々やるけど、それだけで、それで終わるんだけれど、ちゃんと現役の友達だと思っている。相手がそう思っているかどうかを不安に思うこともなくて、友達に求めることというのがもうなくなってしまった。学校の時は一緒にお昼食べるとかあったんだけれど、当時から何も話すことがないなと思いながら卵焼きを食べていた。人に聞いて欲しい話、というのがとにかくなんにもなくて、それよりは仕事の話を仕事相手としているときに、人間と会話している!人間と関わりを持っている!と思う。場つなぎ的などうでもいい話が一番におもしろく、あと、別に好きでも嫌いでもない(ひどい)人間と会話をするときこそ、その人の人格を冷静に見ていられるので、嫌悪とか好感とかそういう曇りガラスを外して人を見つめられるので、「おもしろいな」と思う。同類じゃないし、似てもいないし(私は読書家ではないので基本的に編集さんと話が合いません)、絶対違うような人生生きてきたし、そこまで違うとはっきりわかっちゃうから、それがおもしろい。友達だともう、自分の爪に色塗っているときと同じような感覚で会話をするから、ビビッドでないよね。なんだこの例え。でもこれが一番近い。自分の爪と友達は似ている。もちろんそれはそれでいいのだけれど、それって実は話していないとき、会っていないときも同質の感覚で、もう何を話すとか会うとか関係なくなってきているのだよね。興味を持つほどでも、驚くほどでも、切望するほどでもなくて、でも忘れないし、絶対にそこにあるかんじ。爪って神経通ってないけど肉体の一部じゃないですか。私はそういうのが感性で殴りあうことだと思っていて、そうした放置がなによりも殴るっていう感じじゃない? 殴るっていうのは殴られるっていうことも認めているから。伝わっているかな、とにかく、感覚で書いてみました。とにかく感性は感性の、理屈は理屈の会話の仕方があって、たぶん全く別世界のお話というタイプのお話。おわり。