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「若さ以外の強さを探している」

棋士の羽生さんがとあるテレビ番組で、「若さ以外の強さを探している」みたいなことを言っていて、「若さ」というものについて人がどのように捉えているのか聞いてみたいとは思った。以前穂村弘さんとユリイカで対談した時に、青春のまぼろしを書いていました、と私は昔書いた短歌について話していて、穂村さんが青春はだんだんと人生に負けてしまう、みたいなことを言っていたのが衝撃だった。いや、そうなんだろうな、とは思っていたんだけど。そうなるのが人間だろうな、と思うのだけれど。そしてだからこそ「若さ以外」を求めるようになっていくのだろうし(羽生さんの発言に対しては今田耕司さんがすごく共感していたのが興味深かった。やっぱり若さって大きな武器であり、壁ですよね)。私が衝撃だったのはそのことを穂村さんがさらりと言ったということだ。「若さ」というものを失うのって私はこわいっていうか、それ失ってまで書くかな、どうだろ、っていう気すらしているからか、そうあっさり言った穂村さんのそのドライなかんじが衝撃的だった。
    
そもそも若さが人生に負けていくとはどういうことだろう。穂村さんは若い時には病気も財産も地位も名誉もなくて、あるのが未来へのまぼろしだけだから、それだけだからこそまぼろしが真実になる、とおっしゃっていた。生きていくことで、「人生」が重みを持ち、まぼろしに勝っていくのだと。青春のまぼろしを私は、ときどき本当にただの「ゆめ」だったのではないかと思う時がある。私たちはもしかしたら若い間は、人ではないのかもしれない。命ではないのかもしれない。人生ではないものの中にいたのかもしれない。かもしれないっていうか、たぶんそうだったのだ。私は自分があのころまともな人間として呼吸をしていたようには思えない。まぼろしという言葉を対談のときに選んだのは直感だったけれど、でもたしかにまぼろしと現実のまんなかに立っていて、そしてそこで両方のものを同時に見ることでなんとかバランスを取っていたのだ。両生類みたいなもの? 私はあのころのことを愛しているとか気軽に言えない。あれは私ではない、ぐらいに思ってやらなきゃ、当時の私が怒るだろう。
「若さ以外の強さを探している」と言っていた羽生さんは、ひたすら読んでいく若い強さから、空から鳥が全体を見下ろすような大局観に変わっていったと説明をしていた。「若さ」とは一体何なのか、そしてそれに代わるものとはなんなのか、という話はその人がなにに向かっているかによってもちがうだろう。穂村さんとの会話は、「短歌は生活(人生)を描くものなのですか?」という私の問いから派生して出た話であり、だからこそ短歌における「人生」が「若さ」に相対するものとして現れた。私は自分の人生が作品に影響するとはそんなに思っていないので(世界が作っている言葉の渦みたいなものの方がずっと影響を与えている)、人生と若さが対立構造だとは実はそんなに思っていない。ただ若さとは「凡庸」さを担保してくれるものだとは思っている。作品というのは100%前衛だったら、たぶん届いていかないような気がしていて(届くことがいいことなのかは別問題だけど)、どこかに凡庸な部分があって、それが入り口になるんじゃないかと思っている。で、その「凡庸さ」を担保してくれる一種が「若さ」なんじゃないかな、って。私は10代の頃、どんなにぐちゃぐちゃで混乱したものを作っても、若さという高熱がそこにあるあいだはちゃんと伝わっていくような気がしていた。信じていた。若さや青春というのは人間の脳のほとんどに備わっている感性の一種だと思う。大人になればみんなばらばらになるし、AさんがぴんときてもBさんはちっともわからない、みたいなことが当たり前に起こり得るけれど、「若さ」は現実に作用しないから、まぼろしのものだから、他に比べればずっと、共通のところも多いはず。混沌とした作品のなかで燃えている青春のまぼろしみたいなものにぶつかったとき、わけがわからないけれどぐらぐらと心が揺れるような感覚は、多くの人にとって覚えがあるんじゃないかなって、勝手に思っていた。たとえ作品の輪郭がどろどろに溶けてしまうほどの高熱に晒しても、その熱が「若さ」によってできている限りは大丈夫。そういう点での「若さ」の強さを私は見ていて、だからこそそれを失うって恐ろしいよね、とも思っていた。
   
しかし若さを失うということが、退化でも、進化でもないのは確かなことで、それがただの「変化」だと受け入れたときこそ、「若さ」以外のものを手に入れたと言えるのかもしれない。穂村さんの淡々とした「若さ」への態度はなんとなくそういうことを予感させた。私は若さを失うなら、失うというそのことを生々しくどこまでもリアルに感じ取っていたいし、自覚し続けたい。目をそらすのはいやだよね。終わってるよね。っていうかつまんないよね。鋭さだけでは動けなくなっている、というその自覚を冷静に受け入れ続ける、という姿は、鋭さだけで動いていた頃よりずっとずっと鋭いのでは? なんてね。でも、実際私はそこまで強くあれるかな〜。なんだかんだで早く、どうなるか見てみたかったりもする。