レトロ家電にもなれないぼくらの青春は

なぜだろう、カセットテープよりMDのほうが失われた科学感がすごいある。カセットは今でもどこかには売ってそうだけれど、MDはもう生産さえされてなさそうな感じがする。なんだろうか。結局、最新と、原初しか生き残らないのが科学というものなんだろうか。
   
私はMDを使い始めるのがとても遅くて、ずっと分厚いカセットプレイヤーを持ち歩いていた、キーカシャって機械がリアルに動いて、録音や再生を始めるのはなんだか、まだ「道具感」があって、今のipodとかよりずっとリアルだったな。まだ手足の延長のように思えた。指先じゃできない細かい作業を機械が代用してくれている、ただそれだけのような。なにがおきているのか感覚的にわからない今の機械よりはずっと近いな、と思う。はじめてMDを買った時、の、ふたの部分をむりやり開けて、小さなCDみたいな中身を見つめてみたけれど、よくわからなかった。そもそもここに録音するってどうやるんだろう? けずるの?とか思ったな。カセットだって正しく理解できていたかはわからなかったけれど、なんとなく、曲の長さとテープが比例しているからまだわかった気になれたのだ。それでもそれから私はMDにすっかり慣れて、100円ショップで買っては、レンタルしたCDをダビングしていっていた。今でも大量にそのMDは残っているし、そうして、今、かけられることはない。itunesに入れるのも面倒で、MDからitunesに移行したせいで聴く機会を失った音楽がたくさんある。そうして思い出したように、またitunesで買い直して、聞くけれど、それとMDの中に封じ込めた音楽が同じだったかはもうわからないのだよね。音質とかも違うし。なんだか青春がMDという技術の中に封印されたみたいで不思議な感じだ。
忘れ去られたMDたちとは違って、家にはまだカセットプレイヤーがあるし、なんだかんだでMDよりカセットはわかりやすいらしく、家族が継続的に使っている。私が出たラジオとかカセットで記録されていく。まあ、なんていうか、使い方を忘れても使えるんだよね、カセット。原初の機械っていうのは、複雑さがないというか、直感的に使えるというか。そして、そういうふうに未来でも「懐かしいわ」といって思い出してもらえる機械って、今現役のものではそんなにないなあ、とか思ったのでした。冷静に考えたらたくさんあるかもだけど、まあ、流れ的にないような気がしました。はい、そういうことにしときましょう。
   
レトロ家電にもなれなかった過去の科学技術はただ忘れ去られて、たぶん、ボタン式の電話機だって、黒電話よりも早く、未来で忘れ去られていくのだろう。科学があるのがあたりまえで、なんだって進歩しまくった機械が働く今は、昔よりずっと儚い風景なのかもしれませんね。ってなんだこの話。
   

今日は月がなんだか大きすぎて道路標識みたい。

社会とか世界は、すごく大きくて広い文脈そのものだと思っていて、詩を書くことはそこにボールみたいな言葉を投げて、その文脈に乗せていくようなことだと思っている。景色と同じでどこから見るかでその並びは大きく形を変えていくし、その人がいつも見ている世界の文脈に乗っているから、それぞれがそれぞれ、自分にとって自然なふうに、そしてみんながそれぞれ違う見方をするのは当たり前のことだと思う。小説とかは逆に、特定の位置から見える文脈の景色を、一つの形に切り取って、他の場所からも見えるようにすることのような、そんな気がする。でもそういうのって、なんていうか、POPってそういうことなんじゃないかって、思ったりね。この大きな文脈に接続していくこと。それが、POP。(真面目なトーンでブログを始めるとこのあたりで集中が切れます)
   
『夏果て幸せの果て』を最果てが観て幸せの果て。大森靖子×根本宗子『夏果て幸せの果て』@東京芸術劇場をみました。(以下、ネタバレではないですが、観た後に読んだほうがいいかもしれません)
まず単純に非常に面白くて、「これがあなたの使い捨ての今を幸せにできるだけの演劇」という根本さんの言葉そのものだった。靖子ちゃんの音楽は、聴く人が持っている事情や気持ちや物語に溶け込んで、そしてその中で幸福や力やそれ以外の何かを溢れさせるものだと思っているけれど(それこそ上記の文脈の話に近い)、だからこそ今回、歌の中の物語ではなく、歌の外側にいるみんな、あちこちにいるみんなが持つ、それぞれの物語によりそう歌として、舞台で描かれているのが本当に良かったです。大森さんの歌を舞台にするなら、これしかないだろうな、と心底思った。
   

エビ、マヨネーズ、髪、命。

他人の夢の話ほどつまんないものはないと言いますから、これは本当につまらないのかという実験であります。要は夢の話だ。「それ町」最新刊を見たせいだと思うけれど伊勢海老を助ける夢を見た。ほぼ瀕死の伊勢海老を堤防でみつけた私は海に帰そうとするけれど帰しても弱る一方で、むしろ水にふやけはじめて、えびなのに?!と慌てふためきながら気付いたらえびの殻やはさみがとれて、マヨネーズのボトルだけがそこにあった。えびの胴体はマヨネーズだったらしい。跳ねてなんとか海に飛び込もうとするマヨネーズ(元えび)を半泣きで助けようとするけれどマヨネーズのキャップが取れてそのまま跳ねたらマヨネーズが飛び出す!とあわててつかまえてキャップをつけて、海に返しました。マヨネーズは沖へと泳いで行った。そして目が覚めた。なんの話だこれは、なんの。そう、夢の話ですこれは。そんなこんなで梅雨が来たぞ!
   
梅雨になると髪がうねうねして、重力が信じられなくなる。上から下に下がるのが物理学的にもあたりまえなのに、いったいなにがどうして曲がってしまったの。そのベクトルはなんの力によるものだ!そもそも髪の毛のオシャレ概念が苦手なのです。かなり個人の生まれつきの特性に影響を受ける挙句、切ったりしたときなんてやり直しがきかないんだもの。生えるのを待つしかないじゃない。そういえば今思い出したんですけれど、火の鳥で、原始的な時代の話のときかな? 子供達が死んでしまって悲しむ母親に「また産めばいい」って父親が言うシーンがあって(黎明編)、まあそれを残酷と思うか、生命とはどうしたってそういうものなのよね、と思うのかは時代や場合に左右されるけれど、ヘアカットに失敗した女の子に、「また生えてくるじゃないか」って言うのと大体同じかもしれない。生えてくるにしたって生えるまでどうすんのさ!今、now、台無しになった髪型は戻ってこないのよ!っていう。あ、命と並べちゃだめですよね。でもそういえば髪はおんなの命って言いますよね。まあ、そんなこんなでそういうことです。思いもよらないオチに落ち着いた、とこっそり思っております。
   
火の鳥 1・黎明編
   

原始人は暮らさない街で。

防災してますか。私は、阪神淡路を直撃、さらに東北を東京で経験した立場なので、もはや地震は人生における「日常」という認識でおります。滞在する場所の築年数とかすごく気になる。非常口もすごく気になる。東北震災は、ちょうど日帰りで東京に行っていた時だったんですが、そもそも東京なんていう町に行くのに防災グッズ持っていかないという選択肢がなくて、カバンに防災グッズが普通に入っていました。周りに助けてもらえたので使わなかったけれど。とにかく言いたいのは、非日常ではないんですよ、地震は。絶対に起きるものなんです。沖縄の人にとって台風はもはや日常で、それと同じぐらい地震だって、備えて当然だと思っているんです。遭うんですよ、遭うときは遭うの。小学生の時阪神淡路に直撃して、ガラス全部割れてるし、怪我人がどんどん運ばれていくし、電車も動かないし、つまりこの場から逃げるわけにもいかないし、本当地獄だと思ったけれど、でもそれは現実だったし、今でもあれが夢だったのだと気づくことはないし、今だってあれは現実なのだ。起きたものは起きたし、いまだに後遺症がある人だってたくさんいるし、入ったヒビだって残っている。起きた後で「そんなばかな!」って言うのは、ただのへたなジョークにしかならない。むしろ、起きる起きるって言われているのを幸福に思わなくてどうすんのボーイアンドガール。だって何も知らないわけではない。確実にいつか起きると言われている中で、備えなくっちゃいけないのだ。ちゃんと、ヒントがある。生き残るヒントが。
  
そんなこんなで防災グッズが今はたくさんあって、地震の時、私は子供すぎて何も覚えていないのだけれど、まあ、とにかく幸運だったことはわかる。なんの下敷きにもならなかったし、床一面に割れたガラスが散らばっていたのに、奇跡的に踏まずに外に出ていた。(夜だったから見えなかったんだよ。帰ってきて驚愕ってやつだよ)本当に幸運だったし家族のおかげだとも思う。地震は結局、なにを持って逃げ出すかより(こっちも大事だけど)、とにかく逃げ出せるような状況に自分を置けるかが重要で、倒壊しない家に、倒壊しない場所に、いなくちゃいけない。どうしろというのか。本棚とか、大きいのおけないではないか。大丈夫なのか。それは住む土地として条件満たしているのか。本当に、生きるのが困難な場所に暮らしているのだなあ、と思う。原始人だったら住まないぞ、こんな揺れる場所。でも住んでいるのでなんとかせねばね。あがきなのかもしれない、と思いながら、防災グッズの中身を入れ替え、そして、あがきかもしれない、と思いながら耐震グッズを貼り付けていく。早く空に飛んだ家に住めるようになりたいなあ、そしたら今度は雷がすごい怖い標的になるのかなあ。あーあーあー。結局やっぱり、起きる起きるって言ったって、絶対起きないで済んだらいいなあ、という結論に至るのだ。とにかく、まあ、地震は超怖い。超怖いくせに、超身近。という、当然の話で本日のブログのお茶を濁しますよ。こわいもんはこわいから気をつけてくださいね。ちゃんと生き残ってくださいね。で、今いい防災グッズリストとかないかな、って思ったら阪神淡路の経験を生かしたサイトがあって、「防災」じゃなくて「減災」という言葉がつかわれている。ああ、そうだなあ、人の力では減らすしか、できないんだよなあ。つらい。
    
悲しいかんじでまとまってしまった。でも、まあ、とにかく、防災してますか。そういうことです。防災。圧倒的絶対的確固たる意志で、地面は、揺れるものです!
   

若者よ、豆腐など砕いてしまえ。

カッという感触がないと書いていても豆腐をなでているみたいなかんじになって、すごく気持ち悪くなるんだよなあ。カッ、瞳孔があくようなかんじ。そういうのがないといやで、そういうのがあればなにもかもOKっていう気分になる。こういう場所でのおちなしやまなしなんのためにこれあるんですか的な文章を書いていると、そういう感触がなくても続いていくからだんだん不安になってきて、不安になると書くのをやめるようにしています。(すでに若干不安です)もうやめたいです。でもこれじゃ記事として足りない!(絶望感)
   
6月になってしまった。という文章から始めようと思ったけれど、少し前に5月に!と思ったばかりだった気もして、そのうち月日の流れしか言わなくなり、もっとすすむと季節のことしか言わなくなり、まるでただの時計のような人間になってしまうんじゃないだろうか。それが老いということなの?(老いに失礼。)不安があったので冒頭にするのはやめました。じめじめと雨雲がやってくる季節で、そうしてそんな時期にはっきりきっぱりした作業ができないと、なにもかもがだめになったような気がして、自信どころか立ち位置も見失ってしまいそうで、本当に怖い。このまえ「それ町」の最新刊が発売になって、ああ、本当に歩鳥とタケルの姉弟はいいなあ。と思った。お菓子を買いに行く話は、ふたりのそれぞれのよさがでつつ、その関係性が現れていて、さりげなくとてもいいなあと。あと静さんが好きなので、あの怖い話の話も好きだった。取り乱す感じとかが新鮮で。いいんだろうかこんなただの感想たれながし日記…。でも、こんな客観性のかけらもない日記を書いていて大丈夫なんだろうかと思うのはきっと、梅雨のせいなんだ。そう考えないとやってられない気分になる。私はいつだってなんとなく自分に物足りなくて、できるかぎり時間を有効利用し続けないと、なんか腐ってくるんじゃないかという気がして、でも一方ですごく体調が崩れやすく、とくに梅雨とか夏には弱いので、ろくに作業が進まなかったりすると本当に、なんか、もう、本当に、ぞっとするんですよね。精神的にタフ過ぎて、それに引きずり回されている感じがする。100年後とかに、「ああもっといろいろやりたいことがー書きたいものがー」って言いながら死ぬ自分を想像していて、うわあ、いやだあ、って思って、だからまたがんばるってかんじで、うーん、なんだこの血走った人格。我ながらそう思う。なんだろうか、悔いなく死ぬなんてありえるのか、ありえないだろ、でもそこに賭けたい!っていう感覚があるんです。たぶんこれ「若さ」ってやつだな。私まだ一応精神は若いんだな。よかった。
   
(もう続きようがないので)おわり!
   

厭世家インサマー

この夏は連載が二つ始まったり、詩でもとてもうれしい(私が)お知らせができたりするはずで、だから私を愛しのコタツから引き裂くこの暑ささえ我慢できそうな気がする。台風や梅雨がくるまえの夏の序章みたいなこの時期は、人の手肌がずっとまとわりつくような中途半端な暑さがあり、あくまで攻撃的な猛暑、しかも日差し付きのそれよりずっと煩わしいのだ。個人的感情を伏せてまで空虚な正論で戦おうとする中学生の発言みたいに、なんかすごくべとべとするしめんどくさい。(この発言は主に、当該時期の私にぶつけられています)
 
まあそんなこんなで。どうして暑い国のごはんって、何重にも味に人格があるの、とか意味のわからない話を始めてみますよ。(ネタがないのだ)ものすごく甘い食べ物に、辛いチリソースがついていたり、酸っぱいスープに辛いソースがついていたり。なんなのか、辛くしたかったのならなぜそもそも元の料理は甘いのか。最後のスパイス係と料理人が別人だとしか思えないことが多い。私の舌の味蕾のどいつに主張をしたかったのだろう、謎である。(ここでどうでもいい話ではありますが(そしてもしかしたらみんなご存知なのかもですが)、味覚は舌の場所によって感じ取れる味が変わるそうです。甘みは舌先、とか)辛味はただの味覚とはことなり、実は単純に痛みでしかないそうなので、いろんな味を展開させ、まあ口の中が収拾がつかなくなったところでとりあえず最後は辛味で殴ってスッキリさせておこう、みたいなテンションなのかもしれないですね。私は、辛味がたとえ痛みだとしても、それはそれで快感あり得ると思っています。基本、人は外に出たり人に会ったりすると50%は傷ついたりするわけで(そんなわけないという発言は私を傷つけるのでやめよう!)、それでも接触しようとしたりするのだから、もともと傷つくのちょっと好きだったりするだろ、おい、とか思っていたりするのです。(私、クールな厭世家。)たとえば、恋したがる子とかそんなかんじだとおもいます。痛みがあるからこそ、喜びが映えるわけで…。ん?まさかチリソースも甘い味付けを引き立てるためのことなんだろうか…そういう教えがこのソースにはまさか…。(そんなこんなで東南アジア料理に人生を感じる暇人のどうでもいい夏が始まる!)

世界は舞台ではなく共演者でしかないとかいう謎の仮説

しまった更新が止まってしまった!しまった!
   
どうして歴史小説や歴史漫画を読むと、信じてしまうのだろう。事実がもとになって描かれているからだろうか。歴史の最終地点が神話と混ざり合っているのもおもしろいなあ。普通に現在から遡って歴史として描かれているのに、過去にだんだんと神や精霊が現れたりする。こういうのは現在の「社会」に対するかなり理論的な視点よりもずっと、自然だと思う。結局ひとは自分たちが把握しきれないものを潰して、そこに人工の秩序を置くことで、「理解」をしていったけれど、それができなかった以前は、理解ではなくある種の「想像」がかなり幅を利かせていて、それは人が人を見る場合には基本となっている視点じゃないかとおもうのです。ほら、人がいるじゃないですか、自分以外の人が。それを100%理解して、ロボットを操作するようにコミュニケーションする人はいなくて、だれもがあたりまえのように、相手に「心」という不確かで、ある種幽霊のような存在が、あるのだと確信している。それは自然や世界に神や精霊が宿っているのだと信じていた昔の人と、とても似通っていると思う。つまり、昔の人にとって、世界もまた尊重するべき「個人」であり、服従させすべてを理解しコントロールするための相手ではなく、コミュニケーションの相手だったとすれば、人にとって当時、世界は舞台ではなく、自分たちと同じうごめく「共演者」でしかなったのだろうとおもう。世界の中でうごめく自分たちを想像するなんて、すっごく視野が狭いのであろうなあ。世界と仲良くしましょう。ときに殴りましょう。なんてね。(以上、思いつきでしゃべりました)