欠席マイマイ

ヘーイやまだだぜ!
平気でころころ名前を変えてしまう私ですから(しかもその場しのぎ)、当然のように名前に対しての意識が薄く(ペンネームの話ですが)、最果とか森山とかも作品への署名以上の価値を必要としていません。おかげで打ち合わせとかでその名前で呼ばれたり、その名で人前に立つことはきわめて違和感があります。というか役割上、作品がすべてですから、私という存在はその影に隠れていたらいいと思っています。なんなら作品のみであるのが自然だとも。
しかし一方でこの社会の成り立ち上、読書であろうが絵画であろうが、観察者は常に自分が人と向き合っていると考えることが主流で、たとえば大昔の小説にもはや亡くなった作者の写真が添えられていたり、履歴が書かれていることは当然であり、また、一冊の本を、この作者が書いたから、と読み始める読者も多くいます。これも間違ってはいないでしょう。この世の中はいまだ、文明の主役は人間であり、またそれ以外は存在しません。つねに人工物のうしろには人がおり、その必然性が人の影を意識させます。こういった文化が次第にコンピューターの発展、そしてSF的に言えば他の知的生命体出現(半分冗談で言ってますよ!私は大丈夫ですよ!)によって崩壊することがもっとも人類の文化において大きな変化となるのではと思います。
  
でも文明の主役が人間だなんて人間しかおもっとらんよなー。(と、単純な発言に帰着)