「銀河の死なない子供たちへ」下巻

施川ユウキさんの「銀河の死なない子供たちへ」下巻に、帯コメントを書かせていただきました。

きみは、どうせ死ぬのに、
どうして、誰かと共に生きるの。
愛でも希望でも諦めでもなく、
そこに「勇気」という答えをくれた、この作品は宝物です。

私は帯に言葉を寄せる時、特に漫画の場合は、言葉でいろんなことを書き綴ってから、最終的に残ったものをコメントにすることにしていて、今回は、「銀河の死なない子供たち」を読んで、コメントができるまでに考えていたことを、こうしてブログに残そうと思う。なんか新しい。気がしないでもないがたぶん気のせい。当たり前のようにネタバレがあります&めちゃくちゃおもしろいから先に本を読んだ方がいいと思う。そうじゃないともったいないです!!!
   
以下、今回はメモ的なものなので断片的だよ。
    
    
作品の冒頭、「はじめに言葉ありき。宇宙が終わる最期の瞬間、そこにあるのも言葉だけなの」というセリフがある。言葉だけが永遠で、世界が終わったとしても、誰もいなくなったとしても、言葉だけは残るのだろうと。言葉を発する存在の死は、だから永遠に、生き残ったものの心に突き刺さる。永遠に生きていく体をもつことができても、十数年しか共にいなかった人の存在を忘れることはできない。
(この物語は、不死身の体を持つ子供「π」と「マッキ」、それから二人を見守る「ママ」の物語だ。地球上には動物はいるが、人間は見当たらず、文明の痕跡だけが残っている。ママには人間がいた頃の記憶が残っているが、「π」と「マッキ」にはそんな記憶はなく、人間というものを目にしたこともなかった。そんな二人の前に、ある日、宇宙服をきた女性が現れる。彼女は一人の女の子「ミラ」を産み落としすぐに死んでしまった。そうして、二人には赤ん坊のミラだけが残されたのだ。ミラという「あっという間に死んでしまう人間」とのはじめての交流が、そうして始まる。そうして、きっと、あっという間に終わる。ママはふたりに大きな悲しみが訪れることを恐れ、体を病んだ「ミラ」に不死身にならないかと提案をした。けれど、「ミラ」は、πは、そんなに弱くない、と答えたのだ)
  
生きる限り、何度も別れは訪れる。その別れは孤独を呼ぶ。たとえそばに誰かがいたとしても、人は本当の意味で孤独から逃れることは、決してない。生きる限り、孤独はかならずそこにある。
だから家族を、人は作るのだろう。孤独を打ち消すためではなく、孤独に生きる勇気を得るために。死の際、ミラはπにもう自分は死ぬであろうことを伝えた。「私は人間なの。π。だから…だから私死ぬの。ごめんね」別れの、挨拶。恐れても、不安でも、死にたくなどなくても、それでもやってくる死の淵で、ミラはπに別れを伝える。「ミラちゃんはとっても勇気があるね、えらいね」πもその言葉をしっかりと受け止めていた。それは、二人が家族だったから。ミラは死にたくなどない。πはミラを失いたくない。それでも、別れを迎える勇気が、二人にはあった。孤独を埋め合うための関係ではなく、自らの孤独を、相手の孤独を尊重しながら、共に生きていくことができたから。二人は、確かに「家族」だった。
    
  
ママについて。
人類が地球から出て行くことを知り、たった一人で地球に残ることを恐れ、死にかけの子供(πとマッキ)に永遠の命を与えたママ。ママにとってそれは絶対的な「罪」だった。子供達は、ママがいなければもう死んでいたのだし、決して罪とは言い切れないけれど、不死身によって苦しんできたママには耐えきれないものだった。ママの孤独は、最初、永遠に一人で生きるというそのことの孤独だったと思う。その孤独を思いやる人もおらず、なにより、同じ時間軸で過ごす人もいない、孤独が、誰の目にも映らずにいた。けれど、今はマッキがいて、πがいて、ふたりはママの家族だった。ふたりはママの不死を知っていて、ママの不死とともにありつづけることもできる(そしてだからこそ罪の意識は膨らんだのだと思う)。ママの孤独はそうして、次第に形を変えていった。ふたりは、ママをおいて、いつかどこかにいってしまうかもしれない。たとえ場所は変わらなくても、命に触れ、生きること、そして死んでいく生命に憧れ、自分の今のありかたに疑問を抱くかもしれない。そうして心が離れていくかもしれないし、永遠の命を与えた自分を、恨むかもしれない。そうした予感が、今のママを孤独にしていた。けれど、だからこそ、ママがふたりを不死身にしてしまったのだと告白した時、マッキとπはやっと、ママの孤独に寄り添うことができたのだと思う。やっと、直視することができた。ママの孤独は、もう、「誰も知らない」ものではなかった。3人は、そうして「家族」になったのだろう。
最終回でのマッキの選択は、その経緯によって生まれたものだと思う。これまでと変わらないように見えて、けれど、全く違っている。ママによって決められた「日常」ではなく、マッキ自身がその日々を選ぶ。ママの孤独を、見つめることができたから。
   
   
ミラについて。
死んだら海に流してくれと言おうとしていたミラは、最後の最後で、母親のお墓に行くことをのぞんだ。顔も知らない母親。母親が、自分を産み、死んだという場所を、彼女は訪れることを望んだ。生きることはどこまでも孤独だ。それなら、死はどうなのだろう。生き物は死んだら星になる、とπとマッキが語り合うシーンがある、そうだとしたら、もしもそうだとしたなら、みな、ともにいることができる。もう永遠に別れなど来ない場所で、ともに存在し続ける。そうした安らかさを、死に感じてしまうことは少なからずあるだろう。そんな予感が、ミラに墓参りを選ばせたのではないか。たとえ顔を知らない母親でも、死によって「ともにいる」ことができるのかもしれない。生きていく「家族」とはそれはまったくちがうものだ。混ざり合い、溶け合い、そうして不変のもの。永遠の静かさ。安らぎ。季節も変わってはいけない、言葉もかわさず、新たな喜びも驚きもない。彼女は、決して、生きてきた時間に不満があったわけではない。彼女は最後まで、「死にたくはない」。けれど生きる時間に限りがあり、そうして、共にいた人たちを置き去りにしてしまうという孤独。別れがやってくるという不安は、あるだろう。そうした孤独から解放される時。彼女は、ずっと自分を待っていたであろう人のそばに行こうと決めた。それは、きっと、πが人として生き、人として死ぬことを望んだことと同じだろう。πは、永遠に生きるというその宿命に打ち負けたのではない。死ぬことはやっぱり恐怖でもある。それでも、ミラがいた。マッキがいた。ママがいた。彼女には家族がいた。だから、そこに立ち向かえるんだ。
ミラに出会う前、πは、死ぬことのない自分、命を繋いでいく必要のない自分を、仲間はずれにされたと捉えていた。それはπにとっての孤独だったのだと思う。けれど、すぐに死んでしまうかもしれない幼いミラを気遣うことで、死の恐怖、命の儚さを思い知ることとなった。だからこそ、孤独であるということから逃れるためではなく、自らの孤独のために、彼女は立ち向かっていく。これは、勇気の物語なのだと思う。生きていくこと、死んでいくこと、そのことに対してのまっすぐな勇気は、命そのもののまぶしさにつながっていく。たとえ不死身でない私たちにとっても、それは見覚えのあるものだ。きっと、ずっと、憧れてきたものだ。
   
  
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