星が、人が、美しさを愛するなら。

結局美しさというのは、必要ではないもので、大切にするべきだけれど、大切にできない。たとえば企業がポスターを作るなら、まずは「情報」を伝達すること、そして「信頼」を得ること、さらには「親密さ」を抱かせることが重要で、っていうかそのために発信をしているのだから、新しくて、最高にとんがった、美しいものはなかなかそれらと共存できないし、つまり、必要でない。私は昔、「大衆性とは「利便性>娯楽性>芸術性」という順番のこと」と書いたことがあって、きっとこの後回しにされる「芸術性」に美しさも入るのでしょう。それでも、美しさが必要で、美しさがあってほしい。言葉も同じ。情報伝達のために生まれた言葉は、どうしても「伝わりやすさ」「書かれている情報の価値」が重視されてしまうけれど、そうではない言葉。それだけじゃない言葉。そういうものもあってほしい。詩は、そうした言葉の一つなんじゃないかと思います。
   
資生堂には詩の賞「現代詩花椿賞」があるのですが、その創設にあたっての、詩人・宗左近さんの言葉を引用します。

「お化粧も詩である、ファッションも詩であるという立場に僕は立ちたいんです。資生堂の仕事というのは、日常にあって日常を超えること。現実を童話の世界に変えること。一種の魔法。だから、詩と同じなんです」

美しさというものが、突き詰めれば不要なものであることは確かで、それでもそこに惹かれること。その理由はあいまいだし、あいまいにしておきたいけれど、そこに人が人として生きる意味があるようにも思います。私はずっと、レンズのような詩を作りたいと思っていました。読む人がその詩を通じて、その人自身の内側や現実を見つめるような、そんな詩。いつもの景色や自分を少しだけ、変えて見せてくれるような、そんな詩が作りたかった。そしてそれはきっと、お化粧が放つ光のようなものにとても近いと思うのです。既製品の美しさを被せるのではなく、その人の内側から、その人自身の美しさを浮かび上がらせるような、そうしたお化粧にはきっとレンズのように自分を変えます。飾るだけで、見える景色も明るく、もしくは瑞々しく見えていく。それは、私が作りたかった詩の、あり方そのものでした。資生堂のフリーマガジン「花椿」(78年間も発行されたこの雑誌は、仲條正義さんが2011年までデザインをてがけたことでも有名です。)には詩のページが毎月あり、私がはじめてそこに書いたのは2013年のことで、『死んでしまう系のぼくらに』にも収録されている「夢やうつつ」という詩です。そしてこの詩は今までで一番、たくさんのひとに感想をいただく詩となりました。たとえば、天気のいい日、車窓に背を向けて、乗客がまばらな電車にのっているあいだ、そっと開くような、花椿はそんな雑誌で、なんとなく距離感が、詩集というものによく似ていました。だからこそ、いつも詩に触れない人も自然と、よみやすい距離感で詩に触れられたのかもしれない。掲載されたその月は私のことを知らなかった人からも、いくつも感想をいただいて、私は、私の言葉が、ちゃんと、届くのだと、ぎゅっと手の中に受け取ってくれる人がこんなにもいるんだと、気づくことができたのです。たとえ美しさが無意味で不要でも、星が、人が、美しさを愛するなら私は書いていて大丈夫だ。なんとなく、そんなことを思いました。
   
詩集『死んでしまう系のぼくらに』が現代詩花椿賞をいただくことになって、それはとても光栄で、ゆめみたいなことなのだけれど。でも、どうやら月刊「花椿」が今月に出る12月号で発行が終わってしまうそうなのです。今後はウェブサイトにて展開されていくらしいのですが、すごくさみしい。大切で、ゆっくりで、じんわり。そういうありかたが似合う雑誌だった。だから、なくなってしまうのがかなしい。そしてそのラストとなる12月号で、現代詩花椿賞の発表として、選評と、受賞詩集『死んでしまう系のぼくらに』から詩をいくつかと受賞の言葉、それから新作の詩「贈り名」が一つ掲載されています。11/5発行だけれど、もうちらほらと手にしている方がいるみたい。詩のページデザインは仲條正義さん。最後の花椿にこうして載せていただけること。仲條さんにデザインしていただけること、とてもうれしくて、余計にさみしいしもうどうしたらいいのやら。とにかく、手に取ってほしいと思ってこのブログを書いています。資生堂のお店で、無料でもらうことができますし、のちのちアプリ「花椿」でも期間限定で読むことができるようになるはずです。ぜひ、お手に取ってみてください。最後の花椿。晴れの日、雨の日、摘みに行ってみてください。
   
(あとでわかったのですが、紙版は季刊で残るかもだそうです、よかった!)
    
 死んでしまう系のぼくらに