正しいことを言うことは、何よりも簡単だけれど、正しいことを言って、ふりむいてもらうことはとても難しい。でも、正しいことを言えばふりむいてもらえるんだと、たいていの人は思っている。
言葉をするどく研ぎ澄まそうとすればするほど、最終的な着地点がとてつもない俗的な言葉でできているのが見えてくる。どうあがいてもそこに行かざるを得ないし、それを理性的に止めていられる間はどれほど研ぎ澄ましても失敗なんだろうと思った。結局さ、きみは人間なんだよ、とこういうときは言われている気がする。なんていうか、構成物質が人間なんだから、人間の言葉にしか到達できないのさ。どんなに高く昇ろうとしてもね、と。
で、だからこそ、芸術に答えはない、とか、表現に正解はない、とか言われるんだろうな、って思った。客観的にね。結局人間が行き着く場所と、人間が理想とする場所が真逆なんだろうと思う。
ツイッターちゃんでこういうことを書きました。→なんとなく、なんとなくなんだけれど……、確かに文才って言うのはあるだろうし、大切だし、文章のよみやすさとか、逆に妙にあいらしいよみにくさとかリズムとか必要だけれど、文才だけですべて書いてしまうのは違うのではないかなと思うの。そういった基礎的な能力を突破してしまう瞬間、そのひとじしんが「どうやって書いたのか、わからない」って困惑してしまうような一瞬がなければいけないのではと思うの。そしてそれに出会うために、かくのではないかと思うの。むこうがわ、と人がよぶ場所。