五月雨のこどもたち

私は五月雨メールの鬼であり、送信ボタンを押すと新たに用件を思い出すというすばらしい脳の持ち主なのですが、ぶっちゃけこの季節の雨を見ていてたら(五月雨の五月は旧暦です)、いくらなんでもここまでメールぱらぱらはさせませんわー、とか思うので慰められる。あとあとであっても思い出すんだからいいじゃないか、思い出さないと事故になるだろ、仕事上。とかって思うわけで、私の五月雨病は治らない。
   
そういえば前にDSをぽちぽちして外に出たら、子供に話しかけられて(同じゲームをしていたらしい)、「おれなーこれなーなんとかかんとかでなー」って軽くネタバレされたあとに、「youtubeでなーいろいろ攻略のなー動画見れるでー」って言われました。私が子供にどう考えても同世代の遊び仲間だと思われていることは気にしないとして、いまどきの子供は動画でゲーム攻略を見るんですね。すごいな、ネット検索とかじゃないんですよ、動画なんですって。動画が情報の主流になりつつあるのかな、なんてことも思いました。子供よ。動画なのか、ネットといえばきみにとっては動画なのか!おねえさんのころはテキストだったよ!ていうかたいていのひとはまずテキストから入るんじゃないのか!でもきみにとっては、チャンネル変えたら番組が変わるという存在で、つまりテレビと同じなんだね。現実的に考えるとかなり小さい子だったので、文字追うとか、検索でひっかかりやすい言葉を考える、とかだと、年齢的に限界があるんでしょうし、逆にyoutubeで動画チャンネル追うぐらいならなんてことはないってことなのでしょう。しかもぼーって見てたらわかるし。うーむ、動画が子供にとってインターネットの入り口になっているだなんて思いもしなかった。どこまでいっても言葉が軸になって(検索とかね)いるものだと思ってた。でも、なんていうか、チャンネルなんですね、そして動画なんですね。検索とかじゃないんだなあ…。(動画も検索はできるけれど、そこに内包された情報全てが言葉として記録されているわけではないし、細かい情報は検索できない。)言葉の重要性がきえたあとのインターネットには少し興味があります。言葉は共通であり、定義が明確だったから、ぐちゃぐちゃの情報のなかの標識になりえた。でも、それでは追いつかなくなった時、どのように人は、情報の海を泳いでいくんだろう。(などと考えたくなるのは雨だからです。暇だからです。)