昔から詩を仕事という認識で書いているので、詩人という言葉の職業っぽくないかんじはなんかぴんとこない。私は食べるため着るため暮らすため、つまり主に洋服とチョコレートと家電のために原稿を書いている。普通のサラリーマンと同じ感覚なのに、「詩人」という言葉には生き方そのものを規定しているような、そんな無駄なだだっ広さがある気がするの。
だいたい「人」ってなんだよと思います。肩書きに「人」っていうのがまずなんらかのおかしさを宿している。人種やないか。職業ちゃうやんけ。小説家や画家というのは仕事という感じがする。その人自身をあらわすというより、そのひとの勤務時間に名前をつけている感じ。当然仕事をしないオフの時間が用意されている。でも、「詩人」という言葉は、働き方というより生き方を指しているように思う。あたりまえのように私が24時間「詩人」であることを表しているように思うのです。
でも詩を書かない時間だってあるし、というかそんな時間がほとんどで、もちろんすべてをポエジーな目線で見つめているわけもない。そんなことしてたらシンプソンズとか楽しんで観れないぞ。人間であることそのものに「詩人」というタグを付けられてもね、という気持ちにはよくなるのだった。
そういう話を取材を受けているときにしたら、記者さんが「芸人」とかもそうですね、とおっしゃっていて、そういえば芸人さんも24時間芸人であることを求められがちだよなーと思う。道端でボケをもとめられたり、普通の会話でおもしろさをもとめられたり。彼らにとって芸というのは商品であって、そしてサービスであるということが、「芸人」という言葉で薄められているのかもしれない。そして、もしかしたら、24時間面白い人であるはずだ、と期待されることは、彼らがエンターテイナーとして信頼されている証なのかもしれなかった。それぐらい自然な「おもしろさ」だったっていうことだもんね。24時間おもしろいに違いないという期待は、彼らが見せた夢が現実となった、その結果かもしれないな。
そんなふうに他者のことなら思えてしまう。人間とは勝手ですね。そして、だからこそ「詩人」であることを受け入れるのも私の仕事の1つなのかも、と思うのだった。そう思ってもらえるのはありがたいことでもあるさ。だから、まあそのうち。まだ慣れないけど、まあそのうち。