詩として作品を発表するようになったけれど、詩とされるまえから私は同じようなものを書いていたし、一度だって「詩として」意識して詩を書いたことなどない。詩人とされるまえから私はいて、私はそれからなんらかわっておらず、詩人である以前に私であり、その私がものを書いている。それだけだ。
詩や小説や絵や、さらに詳細なものも含め、ジャンル分けは受け手側の利便のためにあると思っている。たまに、なにをつくっても詩人であるという前提から解釈されることがあり、それは仕組みとして当然のことでもありながら、同時にふしぎだと思う。私は自分が詩人であるという前提からつくってはいない。
人が他者の肩書きを気にすることはどうしようもないことだ。つかめない水をつかまえるために、器をつかうようなものだ。けれどやっぱり水は水で、器の形はしていない。へたに水が意識を持っているがために、そのことについてふしぎに思ってしまう。
もちろん、詩人として生きる、という人もいる。すべてが詩人として、という人もいて、そういうひとは「詩に真摯である」と評される。かっこいいとされている。けれど私も大事にはしているはずなのだ。つくるということ全般を。それを分けたり、くぎったりしていないだけで、大事にしているはずなのだ。
真摯になる相手が、作るということ自体なのか、言葉すべてなのか、詩なのか、それは個人によって違うだろうけれど、そこに甲乙があるわけもないと信じたい。
人が他者の肩書きを気にすることはどうしようもないことだ。つかめない水をつかまえるために、器をつかうようなものだ。けれどやっぱり水は水で、器の形はしていないって、そういうことが言いたいだけだけれど、だからといって器を奪ったり、割ってしまったりするわけにもいかなくって、つまり器はどうしても必要だ。
……個人的には意識を持った水は自らが動くことを選択し、水蒸気となって器をとびだし世界に漂い始めればいいのではないかと思いましたが、メタファーがすぎますので、結論は自分の行動でしめすことにしたいと思います。
(twitterで質問があったので、念のためここにも追伸しておきます。
今回の文章は、詩人という肩書きがどうとか、そういうことではなく、どんな肩書きであろうとも、その肩書きで単純化して人を見るということがしっくりこない、という話です。私が詩ではなく絵を書く人だったら、詩人というところが絵描きになるだけで、同じことを書いたでしょう。肩書きの種類の話ではなく、肩書きというもの自体のありかたについて書きました。)