他人の他人による他人のためのレッテル

自分のこと語るのに、他人がレッテル貼るためだけに作った言葉なんて借りてくるなよ、とは思うこともあるよ。せっかく、名前があるのに。レッテルなんか、あだ名にする必要はないのに。わかってもらいたいと思うたびに、自分の何かを安売りしなくちゃいけなくなるの、なんか罠っぽいよね。どんな言葉借りてきたって、どうせ誰も他人のことなんて理解できない。
  
「わかりやすい私」は愛されるわけじゃないけれど、でも、不安はなくなる。他人が受け入れてくれるときのイメージがなんとなく浮かぶ。それだけで、救われる部分って多い。孤独がこわいというよりも、明日も孤独なんだろうかと想像するのがこわいのかもしれない、なんてことを思う。せめていつか、わかりやすい私にわかりやすく共感してくれるわかりやすい誰かがやってきて、わかりやすい交流が、できるようなそんな気がしたほうがいいんだろう。安心だ。そして、わかりやすくてそれでいて、共感もできる誰かのことに、シンパシー。それが友情? なんか通りのいい水道管みたいだな、って思ってしまう。私はわけわからない友達がいて、その子のことを今でも好きだ。いい子なんだか悪い子なんだか、それもわからない、けれど、その子が次にいう言葉すらわからないけれど、それが楽しい。私のことわけわかんないって思っているだろうことも知っている。あの子がどういう子なのか、うまく説明もできないけれど、でもそれでよかった。「分かりやすい私」が不要であることが、何より心地がいいと思った。
  
わかりやすいっていうのは優しさにも見えるよね。わかりやすい反応を返してくれる、わかりやすい気遣いをくれる、わかりやすい言葉をかけてくれる、そういうひとは、易しい、容易い。そうすればもしかしたら、いい人って言ってもらえるのかもしれない。そういうのに憧れなくて済んだのは、偶然、意味不明な友達がいたおかげだろう。言葉を書いて、わかりやすくはないものだとしても、それでもなにかが届くんだということに私自身が驚いて、そして励まされている。わからない、でもなんか好きです、と言ってもらえた時、わかりやすい誰かとの、わかりやすい、何時間もの交流よりも、ずっと濃度の高いもの、交換できた気がする。わからなくても、誰かを好きにはなれるし、誰かを嫌いにはなれるし、だから、自分をわかりやすくしていく必要なんてない。他人がきみを軽視するためだけに作ったレッテルなんて全部、捨ててしまえ。