地上はうるさい

満腹感がいつまでもとれない、あげくそれがちょっと不快であるようなそういう結果をもたらす食べ物はB級というかんじがして、食べ物らしくあれ、と強く思う。これはもう欲望を満たすためだけの装置と成り果てていないか。とかなんとか満腹でしんどい時は考える。考えてたらそのうちなんとかならんかな、とも思う。基本ならん。生きていることが素晴らしいというのは手のひらを太陽にかざさなくてもよくわかることだけれど、しかし生命維持のため本能が私に発破をかけようと用意した欲望に、答えるどころかそれを満たすこと自体が目的となって、さらにはそれがコントロールしきれず不快な気持ちに陥るなんて、体を扱いきれてない証拠だね。素晴らしいと言えるほど生きることをまっとうできていない感じだね。それでも「生きる」ためだと言えば、食べることへの罪悪感は減るから、なんていうか気持ち悪いことだと思う。
生命感あふれる植物の葉脈とか、地面に張り巡らされた根っことか、そういうのをちゃんと気持ち悪いと思えるままでいたい。生命だからなんだ。気持ち悪いものは気持ち悪い。生きるために気持ち悪くなる、という現象に対して畏れを抱き、それが綺麗という言葉で表されていたりするのかな。でもあんな模様の壁紙があったら気持ち悪いし、やっぱりそこには「生きている」という付加価値があるんだろうかな。でも、気持ち悪さ自体が「生きている」という事実に担保されている気もする。生きるためにここまで気持ち悪くなってしまったというその事実が気持ち悪さを増長しているのかも。こういうことをぐるぐる考えて何の進展もないっていうのはまさに深夜って感じだね。
    
深夜にものを書くとどうしてこういうくだらない話になるのか。それはテレビがろくにやってなくて、喫茶店もやってなくて、ただ冷蔵庫の重低音を聞きながら書いているからに違いなくて、自分の言葉を投げて反射させるための、外の音がないから。雑音が言葉を持っているかどうかってとても大事なんだな、って思う。言葉は言葉にしか反射しない。どこまでも投げていけるなら、跳ね返ってこないのならば、それは言葉を捨てているにすぎなくて、だからなにかとぶつかって反射する場所で書くことが大切だ。このまえ取材で「ものすごいうるさい場所に行くと、うるさい!って思って、反射的に言葉が溢れてきます」みたいな話をした。渋谷みたいな外野の言葉の圧がすごい場所で(渋谷はモニターが同じ場所に何台もあり、そこからそれぞれ音が出ているため常にバグった5.1chホームシアターみたいになっている)、音に反抗するように言葉を書くときが一番楽しい。外はうるさいから、だからこそ自分の言葉をもたなくちゃいけないし、言葉を持つということ自体が快楽になっているのかもしれないな。