「宇多田ヒカルを聴いて、思い出すのが校庭の匂いなら、きみの幼少期は最高なもの。」
この一節が入っている詩を書いたことがある。私は小学生の頃、生まれて初めて買ったCDアルバムが「First Love」だった。お小遣いほとんど使って買ったそのCD、触る時しばらく手袋してた。新しく発売した『初恋』のビニールを剥がす間、そのことを思い出していた。特別な瞬間があの時、訪れていた。音楽を買うというのはどういうことなのか、まだ何にも分からなかった、それまで欲しいものって、美味しいものとか面白いものとか、ばかりで、なんだかすごく好きで、でも、それがどうしてか分からないもの、そういうものを買うのは初めてのことだった。勇気がいった。それは価値が見合わないからとかそういうことではなかった、高すぎるから、ということでもなかった、自分を自分じゃないものが突き動かしているように思えて、戸惑っていた。私は、私のことをよく知っているつもりだったけれど、もしかしたらそうではないのかもしれない。自分の体が、自分よりも外側へ広がっていく、宇宙や世界と同じものになっていく気がした。
音楽がCDという形になっていて、そのパッケージを剥がすというのも不思議な感じ、まるで自分の所有物になったような感じがして、変なの。それで、手袋使っていたのかなあ。さわっていいものに見えなかった。家にあっても、部屋にあっても、自分の机にあっても、音楽は私のものにはならない。なんとなくそうわかっていた。でも、このCDを手にすることで、音楽は、私と同じ時間を生きてくれるのだろう。それは「所有する」ことよりずっと尊いことなのかもしれない。好きだったおもちゃで遊ばなくなったり、仲の良かった友達が引っ越して、手紙もやりとりしなくなったり、終わっていくものが少しずつ増えていく中で、「これから」というものは、私にとってそれなりに意味を持ち始めていたし、だからこそとても儚いものだということを知っていた。だから音楽は尊い。私が忘れなければ、きっとずっとそばにある。忘れたとしても、思い出せばすぐに戻ってきてくれる。そういう「手にする」を経験したのはきっと、「First Love」を購入したときが、はじめて。小学六年生のころ。自分のものにならない、ということがむしろとても愛おしかった、さみしさを消し飛ばす力がそこにある気がした。よく考えれば、すべてのものはすべてのひとは、「私のものにはならない」けれど、「同じ時間を過ごすことができる」。その始まりだったのかもしれない。私はちいさな存在、そうして、私にとっても「今の私」「12歳の私」は一瞬で、消えていく、ちいさな存在。過ぎていくすべてのもの、季節、時間、それらは手をすり抜けていく、出会えば別れがくる、知ったことを忘れていく、好きになったものに飽きてしまう、けれど、私はその先へ行ける。私は「失う」ことなどないから。最初から「自分のもの」にはできないからこそ。私はいつまでもそれらと、ともに「今」をすごすことができる、その可能性を持っている。
中学や高校でもっと音楽が好きになって、特にロックが好きになって、心と音楽が共振するような感覚は増えていった。歌われる言葉や感情を、「わかる」と思うこともあった。それはあきらかに小学生の時の音楽の接し方とは違っていたし、あの頃の自分とは違ってきていると思った。私の感性が、校庭の砂が風によって払われて、素肌を晒すようなことだったのかもしれない。でも結局、私はあの頃から私だったのだということを、宇多田ヒカルを聴くと気づくことができる。おんなじではないけれど、確実に変わってきているけれど、でも、時間や世界を通り過ぎてきた「私」は、一本の糸のようにつながって、過去と未来をつなげていっている。あの頃の細胞は一粒も残っていないけれど、私は、彼女の新しいアルバムを聴くと、あの頃のことを思い出す。そうして過ぎてきた20年を思い出すことができる。
(冒頭の詩の一文は、詩集『夜空はいつでも最高密度の青色だ』に収録されています。)