才能こわい

『祖父江慎+コズフィッシュ』を買った。かっこよすぎて、なんかもう傷ついた。才能は怖い、ということをここまではっきりと教えられるなんてそうそうない。祖父江慎さんのデザインワーク(2006年までの)がまとめられている1冊です。かっこいいし、傷つくし、つまり、要するに、すなわち最高。
   
何にもできなくて、でもなんでもできるような気がして、未来の自分が最強でしかなかった子供の頃はそれはそれでなんにだって無双できたから楽しかったけれど、それでも今、「できないこと」がはっきりわかるようになって、例えば私は歌がへただし、絵も下手だけれど、そういうのがよくわかっているからこそ、すっきりばっさり、気持ち良く才能に殺されることができるのだ。嬉しいね。デザインなんて絶対できないし、私はこの凄さを理解しているのか?ということすらわからないわけだけれど、でもそれでもだからこそ、この1冊に、ギャー!!!って言える。それは本当、全自動洗濯機で念入り洗いしたかのようなすっきり具合。私は無力になりたいですよ。才能の前では無力でいたいです。洗浄力に圧倒されたい。だってそれがいちばんおもしろい。すごいもののそのすごさを一番体感していたい。なんでもかんでも自分の可能性に引き込んで、「わーかっこいいーわたしもしょうらいこんなのやりたいー」って言っている子供時代より確実に世界が面白く見えています(しかしそんな生意気な子供時代、私だけかもしれない)。ちゃんと才能に殺されちゃえて、大人というのはラッキーです。最強より、無力が楽しい。
   
祖父江慎+コズフィッシュ
   

幻のない部屋

大好きな作品を作った人がこの世から消えてしまうと、なんだかすべて幻だった気がしてしまう。でも、ちゃんと本棚にはその人が描いた本が残っていて、明日というものも残っていて、窓を開けたらまだちゃんと世界がある。
    
吉野朔実さんの作品にいつだって、くっきりとある、その視線が好きです。少女漫画が少女漫画である意味が、そこにあるような気がする。物語であろうがそこにあるのは複数の人生でしかないのだということを、どこまでも突き詰めて。ただ私は、フィクションではない、生きるということそのものを浴びるしかなくなる。それは、少女にはきっと一番に必要なものだ。少年時代、少女時代。友情より愛情より、まず、人であることを知っていく時間。何より必要なのは、きっと鋭さだよ。ちょっと前のブログにも書いたけれど(http://tahi.hatenablog.com/entry/2016/02/18/013433)、人の弱さやどうしようもなさを、つうーと指先で切り裂いて、ひとつずつとりだして、トリュフの入っていた化粧箱に入れていくような、そうした淡々とした作業。そんな視線をあびていたいときがある。そして、やさしい肯定なんて簡単に忘れてしまうから、どこまでも忘れられない冷たい肯定がほしい日もある。しかたがないよね、なんて、聞きたくはない、はっきりと醜いと言ってほしい。そうして開いた本の中で、思いもよらない美しさに出会えたとき、なにもかもがほどけていく。
   

夜空と青と感情

私たちは孤独でなければいけないし、そのために毎日夜は来る。という説がある。頭の中に。星座の知識は残っていたって、それを星空から見つけることはなかなかできない。夜空はどんな解釈をしたっていいのだと、不思議と身勝手に考えることができる対象だ。好きに星座をつくってしまってもいいや、あれが火星ってことにしてもいいや。実際そんな風だから星座は生まれたんだろうし、なにより夜はそういう時間だから、だから夜空は夜にふさわしい。
   
『夜空はいつでも最高密度の青色だ』という詩集をだしました。リトルモアさんからです。デザインは佐々木俊さん。帯文は松本隆さん。本当にピカピカしている気がする、できあがってドキドキしてしまった、著者なのに、著者だからかな。わっという声が漏れた、著者なのに、著者だからかな。ありがとうございます。こうやってまた出せたのはこれまで本を手に取ってくれた人たちのおかげです。
詩は読まれないなんて、そんなことはないよって、ちゃんと詩は届くんだよって、私の詩を読んでくれる人たちが教えてくれました。詩集を出す勇気を、読んでくれる人たちにもらっています。私にとって私の詩は、読んでくれる人と私の間に存在するもの。読んでもらえて、きっとやっと完成するんです。あたらしい詩集をだすのは本当に怖いけど、でも、だれかの本棚や枕元に私の詩集がそっと置かれる瞬間があるなら、怖さはだんだん恋みたいなドキドキになります。
新しい詩集、よかったら本屋さんに迎えに行ってみてくださいね。
   
青色という言葉で人が想像する青は、それぞれ全く違う気がしている。海みたいな青、空みたいな青、薄い青、水色、濃い青。それでもそれらには共通する何かがあって、それを、わざわざ共有しあったりなんてしないけれど、それでも人が街ですれ違うように、ふと共鳴するときがある。少しだけ、色が変わる。その人自身がまた少しだけ、青を知る。知って、新しいその人の青を作る。影響し合うのともまた違って、それでも孤立していない。私はそんなさりげないつながりが好きだ。街ですれ違う人すべてが人間である、というそれぐらいの、根本的でもう意識することもない共通点が、そこにはある。
私は、レンズみたいな詩が作れたらな、なんてことをずっと言っていて。詩を通じて、読んでいる人のいつもの光景が、日常が、少しだけ見た目を変える。その変化こそが、そこで見えたものこそが、たぶん完成品なんだろう。そうしたかすかな存在になれたらいいな。だってその人たちが見ているものは、感情は、どれもがすでにうつくしいから。
  
夜空はいつでも最高密度の青色だ
  

詩集には、一部書店さんで購入特典があります。佐々木俊さんデザインの詩のカードがもらえます。
配布リストはこちらのリンク参照。
http://www.littlemore.co.jp/news/books-magazines/201604191099.html
   
荻窪の書店Titleさんでは、『夜空はいつでも最高密度の青色だ』の展示を開催。
佐々木俊さんデザインによる展示物。青焼きという手法ですべて印刷しています。
詳しい開催日時などはこちら。
http://www.title-books.com/event/1063
   
『夜空はいつでも最高密度の青色だ』サイン本も作りました。数量限定です。
今回は詩の一文もサインと一緒に書きました。

ジュンク堂書店池袋本店/三省堂書店池袋本店/ヴィレッジヴァンガード下北沢/青山ブックセンター本店/ジュンク堂書店渋谷店/ブックスルーエ(吉祥寺)/パルコブックセンター吉祥寺店/百年(吉祥寺)/Title(荻窪)/丸善丸の内本店/ふたば書房丸ビル店/ブックファースト新宿西口店/紀伊國屋書店新宿本店/大盛堂書店(渋谷)/紀伊國屋書店西武渋谷店/HMV&BOOKS TOKYO(渋谷)

子供と春は体温にすら無自覚

ひとつ・オブ・たくさん、であることが本当に嫌だけれどそれはもう抗いようがないことなんだよな。どれほど好きな音楽も本も絵も、世界にとってはひとつ・オブ・たくさんであって、それが世界のすべてには決してならないし、お金があろうが権力があろうが、だれだって、ひとり・オブ・たくさんであって、知らない人の死亡情報を3日後に忘れるのは病気でもない。このあってもなくてもかまわない、そういうピースでいることを脱したくて、もがくことは、それでも血液が逆流するような感覚を与えてくれるから、負け続けることも私には愛おしい。私が私であるというその事実においてのみ、ひとつ・オブ・ひとつ、として充足するのだから、それさえあれば世界に負けるぐらいどうってことない。
   
私は人の弱さだとかが非常に好きで、それはもう小さい頃から、悩むというのがよくわからなくて、悩んでも結局今日のアイスは何味にしよう、とかで、そういうのでやりすごしている時間に、自己否定、vs理想、やりすぎている同級生がきらきらしていたからなんだよな。センチメンタルというものにたいする憧れが、センチメンタルやるべき時期にすごくて、センチメンタルを観察するのが楽しかった。私はどうして、お小遣いが足りないとかそういうことしか悩んでいないのだろうかと、とても不安になった。で、おいしいクレープを帰り道に友達と食べて、そういうめんどくさいことは忘れていった。緑色がたくさんあるなーって、公園に行くと思うし、海に行くと、やっぱ地球は丸いよねー、と思うし、そういう繰り返しの中で、私もこの風景のように、永遠であり、いつだって何らかの欠損を抱え続けていてくれたりしないかな、なんて、期待していたんだよな。人間は、悩むことは、ただ単純に美しいし、それを恥じるその姿や、それをあざ笑う人たちの、そのシステムに、系にすら、愛を覚える。
   
冷えている春も、あったかい春も、空気が自分の温度に自覚がないかんじがして、吸い込んでもいつもよりぼやけている。小さい頃は熱が出ても気づかなかったし、そういう感覚なのかな、春って。
   

他人の他人による他人のためのレッテル

自分のこと語るのに、他人がレッテル貼るためだけに作った言葉なんて借りてくるなよ、とは思うこともあるよ。せっかく、名前があるのに。レッテルなんか、あだ名にする必要はないのに。わかってもらいたいと思うたびに、自分の何かを安売りしなくちゃいけなくなるの、なんか罠っぽいよね。どんな言葉借りてきたって、どうせ誰も他人のことなんて理解できない。
  
「わかりやすい私」は愛されるわけじゃないけれど、でも、不安はなくなる。他人が受け入れてくれるときのイメージがなんとなく浮かぶ。それだけで、救われる部分って多い。孤独がこわいというよりも、明日も孤独なんだろうかと想像するのがこわいのかもしれない、なんてことを思う。せめていつか、わかりやすい私にわかりやすく共感してくれるわかりやすい誰かがやってきて、わかりやすい交流が、できるようなそんな気がしたほうがいいんだろう。安心だ。そして、わかりやすくてそれでいて、共感もできる誰かのことに、シンパシー。それが友情? なんか通りのいい水道管みたいだな、って思ってしまう。私はわけわからない友達がいて、その子のことを今でも好きだ。いい子なんだか悪い子なんだか、それもわからない、けれど、その子が次にいう言葉すらわからないけれど、それが楽しい。私のことわけわかんないって思っているだろうことも知っている。あの子がどういう子なのか、うまく説明もできないけれど、でもそれでよかった。「分かりやすい私」が不要であることが、何より心地がいいと思った。
  
わかりやすいっていうのは優しさにも見えるよね。わかりやすい反応を返してくれる、わかりやすい気遣いをくれる、わかりやすい言葉をかけてくれる、そういうひとは、易しい、容易い。そうすればもしかしたら、いい人って言ってもらえるのかもしれない。そういうのに憧れなくて済んだのは、偶然、意味不明な友達がいたおかげだろう。言葉を書いて、わかりやすくはないものだとしても、それでもなにかが届くんだということに私自身が驚いて、そして励まされている。わからない、でもなんか好きです、と言ってもらえた時、わかりやすい誰かとの、わかりやすい、何時間もの交流よりも、ずっと濃度の高いもの、交換できた気がする。わからなくても、誰かを好きにはなれるし、誰かを嫌いにはなれるし、だから、自分をわかりやすくしていく必要なんてない。他人がきみを軽視するためだけに作ったレッテルなんて全部、捨ててしまえ。

   

 

I like it.

好きなものを作るというのは、自分の中に凡庸な部分を作るということだと思う。言い換えれば、他者と共有できる何かを持つということ。好きなものを見つけるというのは、自己表現のもっとも最初期なものだとも思う。世界と自分の共通項を見つけて、「私はこれが好きです」という。それは一番簡単な自己紹介の仕方だ。もちろんその反面で、好きなもの羅列して語れるような人間は結局いてもいなくても世界に関係ないってこと、というどうしようもない感覚もあるわけだけれど。でも、とにかく孤独である人にとって、世界との関わり方がわからない人にとって、好きなものを見つける、というのは孤独や孤立感からの突破口だと思う。
赤ちゃんはさいしょ、何を考えているんだかさっぱりわからない精神の塊で、でも、食べ物を覚え、たとえばトマトが好きだとか、きゅうりがきらい、だとか、そういう好き嫌いが現れた瞬間、その子は「私はトマトが好きです」「トマトが好きな子です」という声を手に入れる。これってとても素晴らしいことだ。まだまだ言葉はわからないけれど、でも、この子だけの好き嫌いがあり、それがこの子の周りの人にもわかるということ。「きみはトマトが好きなんだね」と理解されること。認識されること。好きなものを見つけることの尊さは、ここに凝縮されていると思う。自己主張をするということは、突き詰めれば絵を描くことや言葉を紡ぐことに至るわけだけれど、きっとこれもすべて、「好きなものを見つける」という行為を細分化したにすぎない。ただひたすらそれを、丁寧に、細かくやっていく。それだけだと思うし、だからこそ作られたものは美しいのかもしれない。
言葉よりももっと原始的なものだ。「好きなもの」でも、たぶんこれを交換するようにして、私たちは会話をしているにすぎない。これがいいよね、といえば、その人にも「これ」がわかるし、この人は「これ」が好きな人なんだな、とその人のことも一部分理解できる。それを飛び越えたものを交換することはとても難しい。誰も共有できない部分を伝えていくことだから。(そしてものづくりはその領域にはみ出ていくための行為だと思っている。)でも、これはそれ以前の話。100%理解できないものは永遠に孤立する。何かを作ったりするとき、私はどこかで共有する部分がないといけないと思っていて、それこそ、情景とかなんでもいいんだけど。で、そういう理解される部分を作るのは、その人の中にある凡庸さ。そしてそれはたぶん、「好きなもの」でできている。
      

「どうでもいいな!」をくれ。

新しい概念を与えることが教えることなのか、教わって得られることなんてないんだと教えることこそが教えるという事なのか、わからないけれど、学校の読書課題とかで先生たちが推薦した図書一覧に、啓蒙的なタイトル(偉人伝とか経済の考えかたとかそんなの)ばっかり並んでああああああああという気持ちになったのは本当で、大人が子供に与えたいものを、子供は多分消化できない。言われたこと、決められたこと、要するに大人が与えてくるものに従えばいいのだという、もしくは従うのがバカバカしいのだという気持ちに囚われて生きているのを早く脱することだけが、あのころの私の唯一のアンサー、だった。それは確か。関係ないのだと思うのが一番に大切。十代の私にとって、大人に従うのも反発するのも、そもそも私の中で暴れまくっている焦り、なんだかよくわからないけれどふつふつお腹の底で沸騰している苛立ち、それらとは、まったく別次元の話だった。さっさとそこに立ち向かわなきゃいけないのにいつまでも大人への嫌悪感だとか、大人へのコンプレックスだとかの渦にぐるぐるぐるぐるのまれて、流されて。そういう話じゃないんだよな。私は私の人生を生きていて、道標なんてなくても歩けるんだよ。公園と同じだよ。
    
ときどきあほらしいような本、人生観がかわるっていうか、人生観とかどうでもいいな!と思わせてくれるような本を勧めてくれる大人がいて、そういう大人には、この人、教育する気ないな!とも思ったけれど、でもどうせならそういう大人になりたいと思った。で、そういう本はたいてい最高。最高な音楽や最高な小説や最高な絵は、いつだって「どうでもいいな!」をくれる。突風で私というものにこびりついたすべてを、吹き飛ばしてくれる。