原典原典原典

海外文学の話題になったとき、この年になると「原典で読めるでしょ」と言われることがよくある。第2外国語とか第3外国語とか習得すると余計言われる。特にわたしは外国の古典文学で「訳文がいろいろすぎるんだよチキショー!」とか言うからなのであるが、にしても原典至上主義はどうなのだろうと思う。はじめのところで書いたけれどわたしは「わたしのアリス」を幼いころの日本語の記憶で見つけた。そらでいえなくても、読めば波長が合ってくるのだ。そんなものすりこみというより言葉の記憶といったほうがピンとくる。
多国語は話せたほうがそりゃあ便利だ。けれど小さなころにつかっていた言葉というのは、つまりは頭の中で考えるときに使う言葉であるし、もしもなんの言葉もない国で生活して眠るなら、そこで夢を見るときに使う言葉でもあろう。昔バイリンガルの女の子が考えるときはと聞かれて、多分ごっちゃで使う、なんて答えていたけれど、それはそれで彼女の言葉なのだ。でもだとすると、彼女は何の言葉で書かれた文学がピンとくるのだろう。一番ピンとくるのはもしかしたら彼女だけのバイリンガル言葉で書かれたものかもしれない。
感情移入とは共感がきっかけであるし、疑似体験でもある。文字を追うことで頭の中で感情や出来事が再生され、ワクワクしたりおののいたりする。そういう経験として消化するには頭の言葉とそれが一致しなければならない。いちいち頭で訳したり、なんなら「理解」なんてしていたらそれはもう経験ではなく見学になるんだろう。そういえば先日ケータイ小説を読んだ友人が「内容とか以前に受け付けない」なんていっていたが、あれはたぶん小説の世界に住んでいる若者、そして著者の「頭の言葉」と、友人の「言葉」が異なるからだろう。友人だってもちろん登場人物と同い年ぐらいだろうが、環境やみてきたものの違いによって異なってしまった言葉を使う登場人物についていけなくなったのだろう。異文化としてみればそれなりに受け入れられたのだろうが、今の若者、みたいにしてケータイ小説が扱われているからこそ、嫌悪感が生じたのだ。
でももちろん原典で読む利点だってある。言葉はその言葉の並び自体が美を極めることもできるし、それはもちろんそのまま触れなければ知るところではない。日本人だって自分の好きな日本文学は、ぜひ日本語を勉強して読んでみてくれ!と言いたくなる。ストーリーを知るだけが文学ではないのだから、それはそうだ。問題は、一度「和訳」とまではいかなくとも「理解」のフィルターを通さなければならないなら、美を優先してはいるが何かがおろそかになるのでは、ということ。原典で読め、ということはもちろん、夢や思考をその言葉でやってしまうほどでなければならないし、日本語よりもその言語に近づかなければならないかもしれない。そういうところでなく一応大学なんかで言語として習得した程度の人間が、原典だなんていってもそれは完璧ではないのだ。と、本棚の奥から出てきた○○の原典の手のつけなさっぷりを見て、思った。