蓄光 vs 私

蓄光というものがまともに光ったところを見たことがない。私の部屋が悪いのか、私の夜が悪いのか。光らないぞ、それとも光を浴びてないから? 私の昼じゃ、私の太陽じゃ、満たされないっていうの?! そんなことを思いながら5月だってもう半分を過ぎようとしていて、私は原稿を数えている。夏が来るというのはぞっとするよ。日差しなんていらないよ、熱なんていらない。おいしくこんがり焼けてだれがうれしいんだよ、こんな偏食の人体たち。季節は素敵だと思う。でも、絶対に、こんなに温度が上下しなくてもいいと思うの!
   
言語とはなんでこんなにもそれぞれ違っているんだろう、と英語が母国語のアーティストとかがインタビューに答えているのを見るたびに思う。彼らにとっては英語が自然であって、思考も感情も全部英語なんだよなあ、と思うとすごく変な感じになる。宇宙人と一緒じゃん、とすら思う。なぜだろう、言葉が精神に密着しすぎていて、一緒に生まれてきたような感覚なので、言葉が全然違うというのはものすごくおかしなことに思えてしまうのだ。そりゃあ昔の人もバベルの話とか考えるよね。異常な感じに見えるもんね。たぶんこれも、相対の問題なんだろう。昔の人が空を動く太陽や星を見て、天動説を信じていたように、自分自身の状況を基本として全体を見るから、まさか自分たちもあれらの星と似たようなもんに乗っているのだなんて思わないし、自分は大地が動いているとは思えないからそれを信じて、結果的にゆがませてものごとを捉える。でも自分を基準にせずに物事考えることなんて可能なのか? 好きなバンドがあったらやっぱり、「世界一のギタリストって誰?」って聞かれた時その好きなバンドのギターの人の名前をあげちゃうような(たとえ技術的なことを客観的に見たら全くそうでなかったとしても)、そんなもんなんじゃないのか? 英語って難しいよ! どこまで勉強したってやっぱり夢は日本語で見るし、そこがくつがえったら今度は日本語を取り返しに行かなきゃいけないし。やっぱり無理だよ〜うえ〜んどらえも〜ん、っておもっちゃいそうなところを押しつぶして、がっつり客観視を貫く科学は尊いな、と思います。
  
えーっと、で、なんの話をしてたんだっけ、って思ったところで書き終わるのをブログのコツとしています。では。