「我々人類は生命の定義から外れたのでは?」

今日は地球の核構造を解明したインゲ・レーマンの誕生日ということで、いつものおきまりのgoogleロゴ祭り(googleロゴをその記念日に合わせて改造するあれ)が開催されているけれど、それを開いたら、なんかチョコレート菓子のレシピが掲載されている。マシュマロ・チョコレートなどを使って、実際にその核構造に従ったお菓子を作っているのです。粋やな! 江戸っ子もびっくり! 最近よく知らなかっただけで、こういうノリが定番なのかと思ったけれど、レシピは見た限りでは他にはなかった。ページに偶然行ったおかげできゅんってしたよ。たしかに割って中の構造を見せるのって、お菓子と地球が定番だもんね。でもこれ私が紹介したら魅力半減だろうなあ、なんにも期待せずにクリックしちゃって行き着くのがきっとこのページとの正しい出会いの仕方だぜ。(だけどそれだとほとんどの人出会わないから書いちゃえ!)クリックにワンダーをもたらすのがなにより重要なんだろうなって、そういう思想なんだろうな、ってページを見ていて思った。さて私はネットで活動しているけれど、どれぐらいのワンダーを作り出せているだろう? わくわくしたいね、とにかく、生きてる間は。(じゃあこのブログをまずはがんばれ、と我ながら思う)
 
予想外のことをすればいいのだろうか、驚きがあればいいんだろうか、ワンダーとはなんだ? たぶん予想外なだけでも驚きなだけでもなく、もっとひらめきみたいな形をした「わくわく」のことなんだと思っている。ポジティブであり、夢があり、裏切りがありそれ以上の期待をもたらすもの。センスオブワンダーが世界を作っていくし、進化をもたらすんじゃないだろうか。人に見せることを想定することは最終的に、このワンダーをいかに作り出すかに帰着する。そうしてひとつのワンダーを思いついた時の、「みんな驚くだろうなあ、わくわくするだろうなあ、どきどきだってきっとする!」みたいな予感は、なにより作り手にとって快感であって、媚びるとかそういう問題じゃないだろう。そして私はこの、「みんな驚くだろうなあ、わくわくするだろうなあ、どきどきだってきっとする!」みたいな予感を、「快感」として受け取れる人間は、最高だと思う。どんなに利己的な人の動機よりも、自然に思えるのはどうしてだろう? だってお金のことなんて子供のころは考えてなかったけれど、綺麗な貝殻みつけたら親に見せてたし、やっぱりこれは本質なんじゃないかなあ…。私が詩ューティングとか作ったときも、思いついた時はそんな喜びに満たされていた。まずは自分がおもしろそう!と思ったし、そしてそれができあがったとき、やっぱりおもしろい!と思った。みんなに「みてみてー」って見せに行った。別に儲けもなにもないですが、でも楽しかったですよ。その一連のわくわく。そーいうの。ネットは発信までがノーコストでできちゃうし、自己責任でできちゃうから、そーいうのやりとげやすくて最高だね!
あ、これが詩ューティングのgifアニメです。
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添加物とかテレビとか、情報とか、酸性雨とか、なんかこわいものがいっぱいある中で、でもそこから抜け出す方がずっとこわいって思っていて、生きるってことと野生は同義じゃないな、と思った。(わあ、この文章十代の女子っぽい!って思ったけどたぶん誰にも理解されないでしょう。)本当に本当に「本質的な生活。」みたいなことできます? 便利を捨てて原始的に暮らすなんて。できないでしょう。だってめんどうくさいし、逆におなかこわすよ。将来人類がプラスチック食べるようになっても、たぶん私は驚かない。そういうの処理できる内臓になったんだー、未来ってすごーいって思う。いつか「我々人類は生命の定義から外れたのでは?」みたいな論争が起きるようになったりするんだろうか? 生きるっていうのはただの試練なんです。そりゃあ抜け道あればそっちいきますし、生物というあり方自体がそもそもあり方としてひどく条件が悪い。だから生物でなくなることが人類にとっては進化であり、そして我々はついに生物ではなくなった…みたいな話がおきるなら、見てみたいなあ。「詩かよ!」ってつっこみたい。まあ実際には太陽が爆発して地球消えるのが先でしょうけど。