まとめない尊敬

ひとを「尊敬」するという感覚はなかなか理解が難しいもので、私はなんとなく「すごい」と思うことが「尊敬」だと思っていたのだけれど、でもそれはあきらかにたどたどしい理解で、「尊敬」という言葉がこの世になかったのなら、絶対にそうは思わなかっただろうともわかる。先日、ある方と対談をさせていただいて、この感覚が「尊敬」だ、と思い知った。この感覚はまだ知らなくて、だから名前をつけてみようかと思い立って、それから「尊敬」という言葉にたどり着く、そんな健康的な気づきだった。憧れることや、かっこいいと思うこと、そういったものとも少し違って、それらを超えたところにある「その人がこの時代にいてくれて良かった」という安堵。昔、他者にあこがれるというのは非常に不健全だな、と私は思っていたのだけど、この安堵は自分自身のアイデンティティを否定したりはしない、とても自然なものだった。ひとには友達がいても恋をしても兄弟がいても両親がいても、お金があっても夢があっても、拭えない孤独があり、そのうちの1つは、「尊敬」によって埋められるのかもしれない。
   
誰かに憧れることは自分よりも他者になりたいと思うことで、そういうのはなんていうか、「自分なんていらない」と言ってしまうことに近い、なんて思考が昔あった。本質的に、世界と自分を区切る境界線は曖昧で簡単に消えてしまうという危機感が強かった。でもいつのまにか、「他人の中に山のように天才がいる」というそのことが嬉しくって仕方なくなっている。他人によって世界の色は強くなり、それをよろこんで眺めている私は結局、自分にピントがあったんだろう。不明瞭で、どんな人間なのかすらわからない自分を持て余して、そんな自分を見つけ出すためだけに、他者を必死で見つめていた。でもそれはあくまで、自分を見つけるためでしかなかった。今ははっきりと、油絵の具で自分は塗られていて、世界が何色だろうが見つけることができる、そんな安心感がある。すると、それまでだって必死で見ていたはずの他人がもっともっとバラエティに富んでると気づいたりするんだよね。
  
詩集を読んでくださった方が、ときどき「従来の詩」や「詩壇」という言葉を使って私と比較することがあって、でも、私は「従来の詩」とはなんなのか知らないし、詩壇というものを見たことがなかった。どんなジャンルでも、「業界」という言葉や「ジャンル」を主語として使われることは多くあり、便宜上、それらはまるで一つの意思を持った集合体であるかのように語られる。けれど中身は複数の人間や作品で、家族だろうが友達だろうが反発しあって喧嘩しているようなこんな協調性のない生物が集合体としてうごめくわけもなかった。世界は自分と相対している一色の存在ではない。何十億もある絵の具の一色が自分だというそれでしかない。そういえば、昔、詩というものを意識し始めた時、「詩とはなんぞや」といろんな詩集を手に取って、でも、読めば読むほど、全部が違いすぎていて詩がさらにわからなくなったことがある。ジャンルとは、「バラバラなものをかろうじてまとめあげている言葉」でしかないと思い知った。文化も食べ物も、それから人間も、外側から見れば同じ器に入っていても、混沌を避けるために同じ器に入れざるをえなかった、というそれだけのことなのだと今の私は思います。
   

ガーデニング不条理

優しくなりたいと思うより先に、丁寧になりたいと思うし、だからこそ、花とか草とか育てようとするんだろうな。草花に水をやる時の、あの慈愛でもなんでもない、でも、習慣だけではない、どこかにあるであろう特別な感情。それはなんだか人間の本質っぽくて、愛だとかいう言葉が入ってこれないかんじがとてもいいな、と思う。育てる、というのはどうしても手間がかかっていて、ちょっとだけ、報われないところがあって、それでいて植物はあまりにも自分と異なっているから、簡単には自分がやっていることがいいことだとは思えない。共感ができないから。それでも、ちゃんと毎日水をやるというのはどういう感覚なんだろう。ガーデニングが趣味な人は毎朝ちゃんと起きて、そして水を汲んで彼らに与える。その行為はいったい、どこにつながっているのだろう。
   
太陽だとか月のあの規則正しい感じは、ときどき「もう!」と、私をあせらせる。なんであんなに月は規則正しく欠けるのか。なんてね、月も聞かれたって困るだろうけどそんなことで、頭の奥がちょっとだけピリピリする。太陽も毎朝ちゃんとのぼってくるしさ。月に1回ぐらい、月食とか日食とか、起きてくれないと、なんだか自分が不適合生物な気がして悲しい、なんてことを、時間通りにやってきて時間通りに出発する電車に乗っている時に考えていた。自分以外はすべて規則正しい方が、絶対に便利であるはずなのに、それじゃあ我慢できないところがある。ずれていくことや、あいまいであることを世界に求めるのは、なんなんだろうな。簡単に枯れる植物とか、そういう面ではかわいいよね。そういえば。
生物というのは、ちょっとどうなるのかわからない、というところがリスクでもあって、そうしたところが一番の愛嬌でもあるのかもしれない。私は基本的に動物が苦手で、幼い頃、動物園のふれあい広場的なところとかは、なんのためにあるのかわからなかったし、ちかづいたこともないぐらいだ。それは、なにをするかわからない、という事実が満ち溢れているから。怖いやん? それはある人にとっては一番の可愛さであるのかもしれないし、それこそが肯定であるのかもしれない。植物においては、枯れてしまうことだって、それはひとつの植物が示した態度で、愛するのが普通であるのかもしれなかった。
    
人間は、思った通りの返答をしないから、小さな頃はそれが無性に怖かった。こう答えるだろうと想像して投げた言葉に、まったく想像もしない返答がかえってきたりして、それが会話のおもしろさであり、会話をする意味だ、なんていうふうに思えたのは高校生とか、大人になってからだ。人間は予想外のものだ、というのが本当に嫌だったし、なんでそんな予想できないものが私の周りには満ちていて、それらと関わらないと生きていけないシステムになっているのか、全然理解ができなかった。だって、怖いやん? そのころ、太陽も月も、規則正しくて、それに疑問を抱いたこともなかった。私にとっては不条理こそ敵で、その象徴が、生物のあの勝手さだったんだろう。それを受け入れるには、それをおもしろい、と思うには、自分が自分の不条理さに慣れていくしかない。完全に間違いなく行動するのが人間として正しい、なんてことはないのだと、しつけや教育からはみ出たところで知るしかない。ルールは不条理な集団だからこそあるのだと、知るまでは、ルールそのものとして、その不条理に怯えるしかないんだろう。なんだろう、この話。
ガーデニングが好きとかいう人が、ある程度大人に見えるのはもしかしたらこういうことが理由なのかな、とも思う。どんなに水をやったって、肥料をやったって、枯れる時は枯れるし、その理由を語ってくれはしないし、それでも一方で、妙に良く育つことだってあるだろう。花屋さんの言った通りにしたのにな、と思いながら、枯れてしまった鉢植えを見るとき、申し訳ないとは思いつつも、それで「育てて損した」とは思わないのは、たぶん、その結果のあいまいさを最初から承知しているからで、そこに命というものの定義が存在している。死んでしまう可能性はいつだってすべての生物に存在している。それが生物の定義なのかもしれないね。
   

地上はうるさい

満腹感がいつまでもとれない、あげくそれがちょっと不快であるようなそういう結果をもたらす食べ物はB級というかんじがして、食べ物らしくあれ、と強く思う。これはもう欲望を満たすためだけの装置と成り果てていないか。とかなんとか満腹でしんどい時は考える。考えてたらそのうちなんとかならんかな、とも思う。基本ならん。生きていることが素晴らしいというのは手のひらを太陽にかざさなくてもよくわかることだけれど、しかし生命維持のため本能が私に発破をかけようと用意した欲望に、答えるどころかそれを満たすこと自体が目的となって、さらにはそれがコントロールしきれず不快な気持ちに陥るなんて、体を扱いきれてない証拠だね。素晴らしいと言えるほど生きることをまっとうできていない感じだね。それでも「生きる」ためだと言えば、食べることへの罪悪感は減るから、なんていうか気持ち悪いことだと思う。
生命感あふれる植物の葉脈とか、地面に張り巡らされた根っことか、そういうのをちゃんと気持ち悪いと思えるままでいたい。生命だからなんだ。気持ち悪いものは気持ち悪い。生きるために気持ち悪くなる、という現象に対して畏れを抱き、それが綺麗という言葉で表されていたりするのかな。でもあんな模様の壁紙があったら気持ち悪いし、やっぱりそこには「生きている」という付加価値があるんだろうかな。でも、気持ち悪さ自体が「生きている」という事実に担保されている気もする。生きるためにここまで気持ち悪くなってしまったというその事実が気持ち悪さを増長しているのかも。こういうことをぐるぐる考えて何の進展もないっていうのはまさに深夜って感じだね。
    
深夜にものを書くとどうしてこういうくだらない話になるのか。それはテレビがろくにやってなくて、喫茶店もやってなくて、ただ冷蔵庫の重低音を聞きながら書いているからに違いなくて、自分の言葉を投げて反射させるための、外の音がないから。雑音が言葉を持っているかどうかってとても大事なんだな、って思う。言葉は言葉にしか反射しない。どこまでも投げていけるなら、跳ね返ってこないのならば、それは言葉を捨てているにすぎなくて、だからなにかとぶつかって反射する場所で書くことが大切だ。このまえ取材で「ものすごいうるさい場所に行くと、うるさい!って思って、反射的に言葉が溢れてきます」みたいな話をした。渋谷みたいな外野の言葉の圧がすごい場所で(渋谷はモニターが同じ場所に何台もあり、そこからそれぞれ音が出ているため常にバグった5.1chホームシアターみたいになっている)、音に反抗するように言葉を書くときが一番楽しい。外はうるさいから、だからこそ自分の言葉をもたなくちゃいけないし、言葉を持つということ自体が快楽になっているのかもしれないな。
    

ちゃんと嫌われたい。

店員さんのマニュアル的対応がどうこうという話題はよくあって、私は別にそのあたりはさほど気にならないのですが、「マニュアル的なお客さん」になってしまいがちな自分に、よく憂鬱な気持ちになります。自分が接客アルバイトをした経験があるからなのかもしれないけれど、そのお店でのルールというか、店員さんにとって都合のいい注文方法だとかを気にして、注文をしてしまうということ。そこからはみだしたことを聞けないし、そこからはみだすことがそもそもできない。コーヒーショップでは聞かれる前から、注文メニューの前に、サイズと持ち帰りかここでお召し上がりかとホットかアイスかを、簡潔に並べて述べて、変な略語で商品を呼ぶことや(アイスコーヒー=アイコとか)、ゆびさしだけで注文することもどうしたってできなかった。店員さんの決まったセリフで注文を聞いてくることがマニュアル的であるならば、私のお客さんとしてのあり方もマニュアル的であるとしか言えない。私はそういう自分が非常になさけなく思うことがある。
   
昔からルールだとか、慣例のわからない場所に行くのが非常に苦手で、かなり幼かった頃銀行だとか郵便局に一人で行くのも怖かった。ボタンを押して、カードをもらって、自分の番号がアナウンスされたら受付にいくというあたりまえのルールを知らなかった私はどう対応したらいいのかわからなかった。いまなら子供なんだし、行員の人にきけばよい、とおもうのだけれど、そもそも自分はちゃんと一人前だと信じたいからできるわけもない。(それに、今ならインターネットがあるから、何をするにしても、どういったものが必要か、だとかそういうルールを事前に知る手段がある)とにかく、社会はルールまみれで、一個ずつ覚えていかなければいけないということに本当に憂鬱な気持ちになった。
自分の場合、という前提で書いてしまえば、マニュアル的なお客さんとは要するに、自分の「主張」に責任を持てない人なのではと思っている。お店でマニュアルから少し外れることを「これってできますか?」と聞いて「難しいです」と言われたので断念したことが、別の日に他のもっと堂々としたお客さんによって「こうしてね!よろしく!」という一言で通ってしまったのを見たことがある。人間は主張したもん勝ちというのは、主張できない人間ほどよく目にしているし、誰もそんなこと求めてないのにマニュアル的な態度で物事を進めようとするのは、要するに「透明」な存在になろうとしているだけではないかと、自分が嫌になってしまった。主張というのは重要で、思ったことを言うことによって切り開かれるものがあると知って高校時代はそうした性格でやっていこうとしたけれど(私の周囲にいる人は、「主張は大事」という教育をする人がほとんどだった)、主張したことで露呈した自分の身勝手さだとか気の回らなさに対して、自己嫌悪がひどくなるし、私は他人から見て「透明」になりたいのではなく、自分から「透明」になりたいのだと知った。主張が通らなくてもいいから、自分の身勝手さを知りたくないのである。それで「主張しないこと」にまで自己嫌悪するならそれこそただの身勝手だ。
   
しかしやっぱり主張をすれば、他人を不快にすることもある。迷惑であることもある。それは避けられない。そこを抜きに賛美はできない。私は基本、親しくない人に本音を話す意味ってあんまりないと思っていて、つまり相手が店員さんでなくても、他人に対してはマニュアル的な態度でいることがほとんどだった。できるかぎり相手を不快にしないように、それを第一に考えて対応をする(そもそも本音をぶけられても困るだろうな、と思っていた)。それは優しさでもなんでもなく、相手の「不快」から逃れる手段でしかない。けれど、それは一方で礼儀だとも思っていたのだ。その価値観を破壊したのはなんでやねん帝国・大阪と、その周辺、つまりは関西という土壌だった。神戸に生まれたこともあり、関西人に囲まれる機会が非常に多かったためだろう。私は、あるとき、他人に与える「快」「不快」は、コミュニケーションにおいてただのメリハリでしかないという衝撃の事実を思い知ったのだ。
恐ろしいことに、他者を「不快」な気持ちにするのも、コミュニケーションの一環らしい。なんていうと、まあ、野蛮な話にしか聞こえないし、実際それがうまくできている人はほんのわずかで、その真似事みたいなことをして野蛮になっている人はたくさんいる。これは関西における「いじり」と呼ばれる会話術で、相手が通常隠している部分、触れてほしくなさそうにしている部分について、あえて踏み込み、それによって相手が見せた「不快」の感情をきっかけに、うわべだった会話の深度を強めるというもの。これが上手い人は、相手がどこを踏み荒らされたら、本気で怒るのか、傷つくのか、きちんと判断しているし、そしてその部分については一般の人よりもずっとずっと尊重をする(そういうひとが陰口をたたいているような場面はまあ見ない)。相手自身もなんとなく伏せている部分、もしくは他者が勝手に気を使って触れないようにしている部分を、うまいことを選び抜いて、相手が嫌がらない程度に軽く踏み込むのだ。そうされると、会話している方も「お前なんやねん」とかいうのかは別にして、遠慮して相手に言えてなかったことをぽんと言えるようになる。ちょっと自分を嫌わすことで、結果的に相手の遠慮や我慢をとりのぞく手法だ。これはもう才能の一種なので、後天的に身につけようとするぐらいならそこらへんのテーブルマナーとか学んだ方がマシだと思う。これができていると思い込んでいる関西人の中でも、実際にちゃんとできている人は本当に少ない。ということを、念のためここに書いておきます。
   
「他者に嫌われる」ということを恐れる時点で、「現時点では自分は好かれている」と考えているのだから図々しい、というのはアンタッチャブル柴田さんの言葉(文体などは違う可能性が高い)だけれど、でも実際、「嫌われる」ということをそこまで恐れる必要はないだろうと今は思う。相手が本気で傷つくことなら当然やめるべきだけれど、ただ自分が嫌われる程度で済む話であるなら、その可能性まで選択肢に入れるのは、コミュニケーションとしてむしろ誠実なのかもしれなかった。私は時々そういう人と接して、そして自分のマニュアル的態度が、なによりも身勝手で、ナルシシズム溢れまくっていたことを思い知った。といっても私に「いじり」とかいう超絶高等伝統芸能は身につくはずもないわけで、変わったのは「嫌われる」という可能性から目をそらさない、逃げ出さないというそれだけ。主張を少しだけするようになったという、それだけだった。(それに、嫌われるのはやはりまだまだ苦手でもある。)でも、「嫌われる」ということから目をそらさないというのは、自分のやることに責任を持つ、その一端なのかもしれない。ということで知り合いの中で私のことを嫌いな人はちょっと増えたし、そして私のことを面白いと言ってくれる人も、たぶん、ちょっと増えている。
    

「私の言葉」などこの世にはない。

人間が嫌いだというそういう感覚とは別で、私の要素のほとんどは他人との間に存在するものでしかない、という感覚もある。肉体というのは他者が私を認識するための目印であるし、私が見るもののほとんどは、他者も見ているものだ。この言語もそれと同じ。
読む人に近づくために、できるかぎり一般的な言葉を使って書いているね、と人に言われることもあって、でもそういうことを意識してやっていたことはなかった。そんな面倒なこと考えていたら文章を書くの嫌いになりそうだ。単純に、そもそも私にとって言葉とは、他者の言葉の歴史を刺激するためのスイッチだったという、それだけのこと。私ではなく他者の中に存在しているものだった。だから、他者がよく使っている言葉の方が多くなるのは別に自然なことだと思っている。
       
それぞれの人の中で、その言葉を使ってきた過去が言葉には蓄積されている気がしている。ある人がある言葉を読むと、それまでのその言葉で浴びてきた感覚が一気に再生される感じ。大きな壁に「死ね」って書かれていたら、すごくぞっとしてしまうことや、「アイスクリーム」って書かれていたらなんだかほんわかしてしまうのは、そういった蓄積のせいだと思っている。私にとって言葉を書くとは、そういう人のその言葉に対する感覚を並べていく、そんな作業だと思っている。言葉はただの文字でも音でもなく、結局はその奥にある個々人の記憶に接続するためのスイッチだ。言葉を書いているのは私でも、読む人と書く人というのがくっきりわかれて一方通行だとしても、結局言葉は私だけのものではなく、書く人だけのものでもなく、限りなく、みんなのものだ、そんな感覚がずっとあった。それは別に最近の意識の話ではなく、小学校の作文の時からそうだった。先生の意識に言葉で接続していく。それは打算だとかそういうことではなく、もっと感覚的なこと。むしろ、言葉単体で、他者という存在を無視して、並べて形を追求していくこと、つきつめれば他人に一切伝わらない造語でものを書いていくようなことのほうが、私にとっては非常に不自然で、意識しないとどうしてもできない。もちろんそっちのほうを突き詰めた人の作品だって好きではあるんだけど。
   
私は作品を、作者という存在を知るためのヒントとして見られることが本当に好きではなく、正直、作者のプロフィールとかずっと邪魔で仕方なかった。太宰治が自殺したこととか、一緒に死んだのは誰だとか、そういう話なんて知らずに作品が読めたらどんなだけよかったか。まあ、それは私の個人的な好みの問題だと思うんだけれど、どうしてもそういう情報を抜きにしてものを読みたいという気持ちになる。顔写真なんていらないんだよ。中原中也の澄み切った瞳なんてしらないで、詩を読んでみたかった!余計な話なんだ。作者が短命だったか長生きだったか、自殺したか大往生か、女か男か、病気だったか健康だったか。知るか!そんな個人的情報、喫茶店で年に1回以上会う友達以外で知りたくもない。っていうか友達ですらいつのまにか結婚してたりするのに、なんで肉親でもない大昔の小説家の女性遍歴に詳しくならにゃならんのだ。もちろん、作品の背景を知るというそうした読解が必要なんだとは思う。研究という面では怠慢なのだともわかっている。でも私は私という存在のままでその言葉たちを読みたかったし、彼らが書いた時代がいつであろうとも、解釈する私の感性は現代のものだ。そしてそのズレで生まれる奇妙な理解と誤解が、面白いと思っていた。だから私は、せめて私の作品はどこまでも、私ではなく読者と私の間に、あるべきものだと思っている。私は他者の意識のなかに、言葉というものはあると思っているのだから、いつだって私の作品は、最初から他者のみでできあがっている。だから私のことなんて忘れてしまったほうがいい。私のことが好きか嫌いかなんて本当、作品には関係がなく、いつだってその作品を好きかどうか、それだけのこと。
   

過去にないもの。

昔ロックというものに興味を持っていろんな名盤といわれるものを聴きまくって、ぜんぜんわからなくて、ぜんぜんわからんということにショックを受けていたんですがこれは私だけなんだろうか。感受性の問題なのかもしれないけれど、でもどんなジャンルにおいても、「文脈を知っていてこそ」というなにかはある。音楽を楽しむということ自体が当時の私にはさほど根付いていなかったので、まずどういう姿勢でCDラジカセに向き合えばいいのかわからなかった。つきつめればきっと、超個人的であいまいな「いい」「悪い」「好き」「嫌い」を文化に対してぶつけること自体それまでやったことがなかったのかもしれない。続きがきになるとか、そうしたエンタメに対する感情とはまた違う、きゅんときたならそれが「好き」のサインだというそんな感覚に慣れていなかった。アンテナが出来上がっていなかったというか、頭の蓋があいていなかったというか。そんななかで急に、すべてがわかるような瞬間というのはきっとどんなジャンルにもあり、私もあるときある曲を聴いて、過去に首をかしげてきた作品もぜんぶぜんぶ好きになった。そういうきっかけは確かにある。
     
最初にきっかけをくれる作品はだいたい、その人にとって最強の存在となる。たとえのちのち、そのルーツとなる音楽を聴いたって、逆にもっともっと進化した音楽を聴いたって、きっかけとなった音楽を超えることはない。そういえば、好きなアーティストも結局好きになったそのときに聴いた曲がどんな新譜がでても1位だ。贔屓ですよ。感性の奴隷ですよ。そんなふうにバカにすることもできるけれど、でも、やっぱり私はそのとき、その瞬間に、「あ!」と言わせてくれたその音楽には力があったんだと思う。音楽そのものの単純な質の話ではなくて(それももちろん関係はするけど)、たとえば時代性だとか、その人のそのときの心情、体調だとかタイミング、そのすべてが揃ったからだと思うのです。じゃなかったら私たちは全員、なんでも鑑定団のビートルズでロックの洗礼を済ませておかなくちゃいけないだろう。結局、なんだって最初は、作品の質以上のなにかが必要なんだと思う。
過去には大量の名盤があって、有名なロックスターが毎年死んでいく。で、それでも、新しい音楽は生まれて、もちろんそれらすべてが過去を超えていくわけもなく、それなのに新しい音楽が青春のすべてだという若者が現れる。大人になってしまえば「そんなんより、60年代のあれを聴けよ」なんて彼らに言いたくなるのも自然と言えば自然で、実際、やっぱり時間という流れの中で淘汰され、それでも残った音楽の方が、「いいもの」とされるものに出会える確率は高いんだろう。でも、それでもそういう話じゃ済まない部分があるはずなんだ。絶対的な評価、いいだとか悪いだとか、名盤だとかそういうものを理解できるようになるには、まず超個人的な経験が必要で、それは音楽の質だけではどうしたって作れない。自分の持っているもの、好きな食べ物、そういうものが歌詞にでてくることだったり、ミュージシャンが同い年でしかも同じ出身地だったり、文化祭で好きな子が聴いていた音楽がそれだった、というそれだけのことだったり、そういった音楽と関係もない部分、「現在」との共鳴がきっかけを作る。今生まれている作品には、今生まれたというその価値がある。それは音楽だけじゃなくて、本だって、漫画だって、映画だってなんだってそうで、だからこそもうなんだってある、すばらしいものはなんだってある今みたいな時代でも、私はものを作っている。
   

運動神経未完成的自我

人間ってなんであんなに俊敏なんだ、動けるんだ、と思っている。私はどうしても全身に神経がゆきとどいていないかんじがして、声だとか動きだとかがまったくコントロールできていない。ような不満感が常にあり、だからこそ私はものを作ることが楽しいのかもしれません。書くという行為は内面での運動でしかないから、つまり内→外に変換する必要がないから、神経はちゃんとゆきとどいている。素手で粘土をこねている感覚。身体の運動は逆にマジックハンドとかで3メートル先の粘土こねている感覚。まあ、そんなわけでとにかく毎日、自分以外の人間がとんでもなく俊敏で、自分のような不器用さは誰も持ち合わせていないようなそんな不安と同居をしています。
   
自分の字や、声が気持ち悪くて仕方がないというそういう現象はほとんどの人にあるらしく、私もやっぱり自分の字は気持ち悪いし、なにもかもが不安定な気がしてしまう。自分の指先でなんとかなってしまうもの、少しのぶれも反映されてしまうものがそもそもものすごく苦手で、手書きで原稿書くとか本当に無理だ。指先をミリ単位でコントロールしている気が全くしなくて、だいたいで動かしている、というその事実が耐えられない、それは私の字ではない。声も私の声ではない。(だいたい自分に聞こえている自分の声が他人に聞こえている声と違うとか詐欺でしかない。)しかし私から生まれたものとして固定される。絵とかかいちゃえる人は本当にすごい、そう思う。私は指の神経の2%ぐらいしか稼働してないのではないかと本気で思っている。だからこそ、スポーツ選手にも失敗があり、「うまくいかない」ことの方が多く、それでいてそのボーダーを突破してしまえる瞬間もあるのだという話は私にとって興味深い。身体能力に優れているということは、決してコントロールが万全である、ということではないのだということ。身体はどこまでも意思とは別物として存在している。
   
世界というのはなんていうか結果しかそこにはなくて、私はそれを観察するだけだから、どれもこれもコントロールされた結果に思えるのだけれど、結局はなんらかの意図や神経がゆきとどいていない結果であることが多くあり、私はそれを把握できない。だから、人が自分を惨めに思うことや、劣等感を持つことは、非常に自然な流れであり、一方で、コントロールができれば万能なのだという、永遠に不可能だからこそ抱ける無敵感もあるはずで、そうやってプラスでもマイナスでも自分は特別になる。主体というもののはそうやって構築されるのかもね。という連休の産物らしい曖昧な結論。